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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

個別支援計画は誰のモノ?

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障害福祉サービスにおいて欠かせない、個別支援計画。

文字どおり、支援対象者それぞれの意思や状況などを盛り込んだ、

支援についての計画です。

福祉サービスの支援とは、“施設”で一律に行なうだけのモノではなく

“利用者”にとっての個別的に実行するものでなければならない。

そのような福祉サービスの定義を、個別支援計画は示しています。


少し前に何かの研修で個別支援計画を扱う内容の研修に参加しました。

だいたい座学にだけではなく、計画策定のグループワークや・・・

計画提示のロールプレイなどが盛り込まれていました。

私が加わったグループでは・・・

個別支援計画の書面を、全てかな表記にしました。また・・・

その方がわかる言葉でに注視して計画を作成しました。

グループのメンバーからは・・・

「できるだけ相手に分かりやすい言葉にしよう」

「ひらがなもいいが、年齢からみても漢字表記でわかりやすくルビを打とう」

との意見などがでました。

そのグループワークで作った計画書を・・・

ロールプレイによる模擬面談で利用者に提示します。

グループごとに、サービス管理責任者(サビ管)ら“提示する側”と

利用者や家族ら“提示される側”に分かれて・・・

役割を交代しながら行ないました。

お互いに模擬面談が終わると、私たちはロールプレイの感想を

それぞれ話し合いました。
すると、メンバーの中には

「ほかのグループでは、説明する口調が硬く、言葉遣いも難しそうに感じられた。家族や周りにはわかるかもしれないけど・・・本人にはどうだろう?

私たちのグループは・・・ほめるわけではないけど・・・

優しく分かりやすく話そうという姿勢がうかがえ、好ましかったのではないか?」なんて言うことが出た。
んーーー私もなんとなく同様の感想でした。

例えば、相手グループが「友人、知人」「支援」などと表現していたことを・・・

私たちのグループでは「ともだち、しりあい」「てだすけ」などと表現しました。

サビ管の役割を務めたときのことをメンバーの1人は・・・

ロールプレイを振り返って

 

「個別支援計画を提示する際・・・この計画案を見ながら・・・

不思議なことに、柔らかでゆっくりとした口調になった」

と言っていました。

また、私たちが作成した個別支援計画書を、他グループの計画書と見比べ比較して

みたところ、文章表現が明らかに平易に噛み砕かれているなーーーってことも

わかりました。

難しい漢字を使わず、漢字にかな表記をつけた文章には・・・

読み書きする際に自然に自ら“目線を下げる”作用が生じるのかもしれません。

とは言え・・・どこまで相手を理解しかみ砕いて表現するのか?

これもまたしっかり考えていかないといけません。
「文字や文言への配慮を、利用者によっては・・・

『子供扱い』『見下されている』などとネガティブに捉える可能性も

あるのではないか?」

と指摘したメンバーもいました。

確かに・・・もっともです・・・ここには十分な配慮がいります。

大切なのは・・・

「相手(ご本人)に分かりやすく」という気持ちを・・・

きちんと計画書に反映させることでしょう。

 

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ひらがなやルビ、文章表現などは、こちらの真摯な思いに沿っていれば・・・

自然に現れてくることだと思います。

この研修では・・・自分自身を振り返るとともに・・・

実際の計画書はどうあるべきか?とさらに考えるきっかけにもなり

検証する時間にもなりました。

常に計画➡実績➡気づき➡改善策(考動)ですねーーー

クレームへの対応どうしてますか?

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自分が団体などに所属し活動していると特に・・・

クレーム処理をしなくてはいけないことも多くあります。

今までに何度も・・・

まーーー「障害」児を育てていると・・・

その間にも様々な「クレーム」には出会ってくるんですが・・・

むかーーし昔・・・何かのクレームへの研修で・・・

興味深いことを教わったことがありました。
クレームへの対応を行なう際、

自分の言動から排除しておかなければならない、

4つの“心の動き”。

これらにとらわれると・・・

クレームを持ち込んだ相手への傾聴や共感が不充分になるそうなのです。

 

1.自分の考えと違うところを指摘したくなる
2.相手が理解していないところを説明したくなる
3.次の手順を無意識に考えてしまう
4.話を勝手に要約しようとする

 

 いずれも・・・

「相手の話を真摯に聴かない」

「相手の話を途中でさえぎる」

「相手の自尊心を傷付ける」

などの、結果・・・好ましくない成果につながってしまうでしょう。

“コーチング”や社会福祉士やカウンセラーが行なう相談支援をする際の、

傾聴技法に通じるものがあるなーーと思いました。

特に・・・「障害」児・者の利用者さんからの相談に耳を傾けていると・・・

話が先に進まない場合や、内容や要点がつかみにくい場合が少なくないと思います。
そのようなとき、つい・・・イライラしてしまい、

前述の“心の動き”におちいることが私もありました。

特に自分の子どもになると特にその傾向は強くなりますよねーーー(笑)

そのとき、反省して以後・・・

この4つの“心の動き”を意識して相手に向かい合うようになった次第です。

まだまだ、身についているとは言えませんがねーーー

でも・・・

何を言われても“罵倒”されても結構、腹も立たなくなりました。

(ときどき凹みはしますが・・・)

これは・・・きっと「コーチング」を学んだおかげです。

自分をセルフコントロールできるようになりました。

俯瞰して自分も他人も見れるようになっりました。

 

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また、学びの中で改めて知ったこと・・・

ここだけ抑えとけば・・・ってことを聴いたとき・・・

なるほどなーーーって腑に落ちることがありました。

それは・・・

「人と自分は絶望的に違う」ってこと・・・

こを深く刻み込んでおくこと・・・

自分当たり前と相手は違う、

同じものを見ていたとしても全然見え方は違う。

こんなことくらい、ここまで言わなくても・・・と

当たり前に思わない。

人に話すときには・・・

0~5歳児に話すようにわかりやすく丁寧に話す。

そんなことを丁寧に教えてもらってから・・・さらに

「あーーー」ってさらにわかるようになってきました・・・

そして・・・大丈夫です。知ってます。わかりました。

は・・・「わかってないから・・・」

「人は1回言ってもわからない、10回言っても聞いてない。

100回言ったら少しわかるかもねーーー」

ってくらいって・・・聞いてーーー脳ってそんなもんらしいですよーーー

確かにーーーって・・・(笑)

だから・・・

クレームだって・・・

私も・・・大方忘れてる(笑)

クレーム処理も経験で・・・

大丈夫ーーーってなりますね・・・

 


様々な学びはいくつになっても「宝」です。

「障害」を理由に「断られる」こと😢

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病院での受診を含めた検査や歯の治療、保育所の一時預かりや

保育園での運動会などの様々な行事・・・

「障害」を理由に断られたことってありますか?

はっきりは言わないにしても・・・

やんわり拒否!!ってとこも私も数々経験してきました。

予防接種や歯の治療でも、受けてくれるところがあれば

ラッキーなかなか貴重です。

でも、きっと断る側も意地悪で言っているのではないんですよ

それはわかっています。

「何かトラブルがあってからでは遅い」「誰もいい気分にはなれない」

という配慮なのだと思います。

でも、配慮という優しさのはずなのに・・・

このことは親にとってはとても辛く悲しく感じてしまうものです。

「断られる」「参加を休むよう提案される」

ということは、「障害」児・者の親にとって辛い出来事の大きなひとつ。

 

「障害」を理由に、受診や行事への参加を断られるっていうのは・・・
経験してみないと分からない辛さや哀しさだと思うんですよねーーー

この辛さや哀しさがわかっていたら

「うちでは、そうした子はお受けできないんですよ」

なんて軽く言えるわけがないと思っています。

親として辛いなあって思いが最高潮だったのは・・・幼少期でした。

子どもにとっても初めてのことだらけですが、

親としても初めてのことばかり・・・

運動会や発表会にわが子の晴れの舞台を楽しみに思う気持ちもあるし

私も、みんなと同じ様にわが子の頑張りをみたいのです。(ドキドキですけど)

でもね、そうした夢は・・・ときどき哀しい思いになることもありました。

うちは保育園で加配保育士がいたので・・・たぶん多くはなかったですが・・・

「ここは参加できますが・・・大会は・・・補助が入れませんから」

そういわれたことくらいかなーーー

幼稚園や加配なしのところは・・・もっと日々あったようですよーーー
今でもそうしたことはゼロになった訳ではありませんよ・・・

 

聞いた話では

 

「発表会ではこんな事をします!子供たち頑張ってます!」

ってお便りには書いてあるのに

「オタクのおこさんは、参加できないから休まれては?」

って言われたり・・・

これは参加が苦しい子どもに対する配慮だったのだとは思います。

でも…

参加出来ない(パニックになる)
周りは参加、うちだけ休むように提案される
了承する
家で子どもを見る
予定外の休日にこどもが不安定になりパニックになる

そんな中で親は・・・配慮という名のもとの結果・・・

排除感でいっぱいになる。

配慮に見せかけて、本当は誰に対する配慮だったのだろう?

そう思ってしまうようになったとも聞いたりしました。

同じ配慮なら、うちの子どもも一緒に参加できるように支援する配慮がほしかった。

と・・・

「障害」児の家族が排除されたような気持ちがこのまま風習のように

続いて行ってほしくないなあーーーと思っています

幼稚園の行事で断られ、病院の受診や予防接種、検査で断られ・・・
あらゆるところで断られまくってきた経験の多い「障害」児家庭

それ以外でも、レストラン、ショッピングセンターなどで

大声を出す子どもを管理できなかったり、その他の行為に関しても

多くの人が当たり前にしている、外食や公園で遊ぶという行為すら

叱られることばかり・・・

この世に存在していてはいけないのかもしれないと、何度も泣きました。

って聞いたりしました。

それでも、自分自身が落ちないように社会に適応しながら育児をしていくためには、

常に

「叱られるても仕方ない」「断られて当たり前」と思うようにしました。

 

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でもね、みんながみんなそんなわけじゃない。

 

「大丈夫?」と、手を差し伸べてくれる人だっていました。

見ず知らずの人が、声をかけてくれたときには胸がいっぱいになり涙しまいました。

そして思うんです。断る側にも理由があるって・・・

支援の手が足りない、自分達には知識がないから問題が起こったら

対応できないなどの事情がある。

怒ってしまう側にも事情があるし、世の中にはいろんな人がいる。

だって、周りから見たら少数派で、珍しい存在。知らない存在

よって、断られた場合は・・・

支援の手がたりない場所で、時代と環境のせいだから仕方のないこなんだ

と思う様になりました。

でも、一旦受け入れたのならば、適当な扱いをしていい訳ではない。

知って貰いたいし、知るべきだと思う。

あまりにも酷い対応だと・・・当たり前に親として一言言うこともあります。

やはり、そこは・・・仕事なのですから・・・・

でも、配慮の足りなさは「無知の知」なんですよね。

日本って経済的には先進国なのだけれど・・・

個人を尊重するという意味では一人一人は・・・まだまだ発展途上・・・

「障害」児・者の理解や、マイノリティと言われる人たちを含めて

人と違う事に対しては排他的になりがち・・・

でも・・・諦めない!!諦めたら子ども達はどうなる?

その親の姿を見たきょうだい児はどうなる?

でもねーーー一人でがんばっちゃーーだめですよーーー

一緒にやりましょう・・・多馬力で行きましょう・・・

そして親としたの「コア」「信念」をもっていきましょう・・・

楽しくイキイキと生きていきましょうねーーー

 

「障害」~混とんとした社会を生き抜いていくために~

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私たちの団体では・・・よく様々な場所へ見学に行ったりします。

施設や、就労支援事業所、障害者雇用をしている会社などなど・・・

そこそこのカラーがあり、思いがあり、仕組や構造化がある・・・
あるところでは発達障害児の支援に特化した事業所で、

(多少知的な子もいたかなーーー)

高度な専門的知識に裏付けられた構造化の取り組みが行なわれていました。

そこからは、確かに大きな刺激と学びが得られたのですが・・・

見学した保護者からやうちの役員からは疑問の声もありました。


「こんなにしっかりとした構造化に慣れてしまうと・・・

将来、構造化されていない社会に出られなくなってしまうのでは?」

 

確かに・・・発達障害のある人たちにとって

きちんと仕組化、構造化された環境は・・・

ストレスを覚えずに活動や仕事ができる空間です。
しかし、この社会全体が構造化されている訳ではありませんし

社会へ子どもたちが出ずに・・・生活がすませられる訳でもありません。

彼らのための構造化や仕組化がされていない社会へ・・・

やがて子どもたちは出ていかなければならないのです。

見学先の施設長さんに疑問を投げかけてみたところ、

 

「構造化されていない社会で生きていくために・・・構造化が必要なのです」

 

との回答をいただきました。
構造化が要らないための構造化・・・?

何だか禅問答みたいな感じになっちゃいましたが・・・

確かに、構造化、仕組化された環境で落ち着いて活動に取り組むことができれば、

きっと子どもたちの自己肯定感が育ち、自尊感情も高まり、

意欲や積極性がでてくることと思います。

その上で、別の環境へ・・・

自分から働きかけられるようになることを目指していくそうなのです。
 

「環境へ自分から働きかけられる」

とは、言い換えれば・・・

「環境を自分で構造化、仕組化できること」でしょうか?

私は「障害」者の方たちへの理解が今後どんなに進展したとしても、・・・

この社会がそこに向けて構造化、仕組化されていくということは

まだまだ遠いと思っています。

 

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ならば・・・どうしていくべきなのか?

混沌とした社会で生きていくための・・・

底力を養い、どうしていくべきなのか?の知恵を身につける・・・

そのような考え方が、構造化という取り組みの根底にあるような気がします。

そして、この社会の今の仕組みの中で・・・

どのような仕事を担う一員とし参画できるようになるのか?

この子達だからこその・・・この特性を活かす方法・・・

企業が困っていることとこの子達のマッチングってないのか?

「障害」者雇用の悩みや受け入れが困難んあ理由は何なのか?

様々な社会の仕組みを考えていくこと・・・

この子達の周りが「できない」と思っていること

それを「強み」「武器」にして雇用されている人もいる・・・

その方法は・・・その方だけぢかできないのか?

いやいや・・・そうではない気もしますよねーーー

そんな人がいるってことさえたぶん知らない?んではないですか?

まだまだ世の中知らないことだらけ・・・

 

伸びしろ満載ですよーーー!!

やってあげることは“諸刃の剣”

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「障害」者就労支援事業所では

送迎するとこ、そうでないとこ・・・

給食つきのところ、頼みたい人は頼めるけどお弁当持参のとこ

様々なやり方があります。その部分で・・・

保護者や本人が選択していく判断材料になったりもします。

でも・・・最近はよく聞くのですが・・・

「体験」「経験」が明らかに少ない。と言われます。

能力があるなしに関わらず・・・

「そんなとこもいったことないの?」

(ショッピングセンターだったり買い物だったり)みたいに

Σ(゚Д゚)びっくりすることも増えてきました。

(買い物かごを使うとこから大きくなって教える・・・)

だからたぶんですが・・・公共機関だって使ったことないんですよ・・・

「周りに迷惑がかかる」「騒ぐから(/ω\)恥ずかしい」

それは・・・きっと小さなころから意図的にやってこなかったから・・・

できないのではなく・・・できなくしてしまっていると思うんですよ・・・

 

だから事業所の中で聴くことで

「自力通所ができること」が条件にあるとこも多くなってきましたが

私はそれもありだなーーーって思ってます。

たぶん、要望が寄せられることも多いと思うんですよ。

でも・・・そこを「申し訳ありません」でお断りする、その決断も必要!!

ここのところ、送迎サービスを行なう事業所が増えてきました。
現在の福祉制度では、毎月の利用日数に応じて、

施設に給付金が支払われる仕組みになっています。

利用者さんに来てもらわないと収入が減るために、

利用促進策の一環として送迎を行なうのも1つの要因です。

でも事業所によってはそこに人材や資金を使うことが厳しいと

聞くこともよくあります。
でもそれはそれでいいんです。

その職場で

送迎がなくても利用者さんが選んで来てもらえる施設を目指そう!!」

でいいんじゃあないですか?できることをできる限り精いっぱい頑張ればいいんです。

まあーーーフアンもあるでしょうが・・・

「ほかに負けちゃうかなーー」「来てくれるだろうか?」

でも、やはりそこは内容ですよ。。。ちゃんとやってるとこには・・・

そんなことはさほど影響はないと聞きますし・・・

返って複数台のバスで送迎している大きな事業所より、

むしろ利用率が高くなっていってます・・・とも聞きます。

 

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その理由は定かではありません。

送迎にマンパワーを割かなかった分、支援の質が保たれたのかも知れませんし

利用減少を覚悟したからこそ、職員の意識が向上していったのかも知れません。
ただ・・・

悪天候でもかよって来る、不便な場所からでもやってくる利用者さんたちや、送迎をしてくださる保護者のみなさんには・・・ただただ感謝の念を抱くことは確かです。

今では「送迎を断念してよかった」と思っている事業所もあり、

これは事態がたまたま良い方向へ転がっただけかもしれませんが・・・
でも・・・送迎というサービスが悪い訳ではありません。

交通が不便な山間部や公共機関がないところなどでは不可欠なはずですからね。

ある事業所の施設長さんがつぶやいた話。
ある時期から送迎を始めたところ・・・今まで自転車や公共交通機関などでかよっていた利用者さんたちから・・・

どんどん“移動する能力”が失われてしまったそうです。

送迎車を待つことに慣れ、自らペダルを踏んだり切符を買ったりする自分で行えていた行為ができなくなり、後退させてしまった・・・
「送迎は“諸刃の剣”です」そうつぶやかれていました・・・

何だか・・・ずーーートかかわってきている私も

「あーーーわかるーーー」そう思ったお話しでした・・・

 

あれあれ?それって誰のせい?

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例えば・・・お客様がきて

「何だかうちのブランドとは感じが違う方だなーー」

って思ったりしても・・・お買い上げいただいたり・・・

「化粧っ気ないけど・・・何買うのかな?」

と思った方がお買い物に来たり・・・

ぼっさぼっさの上髪型の人が美容室を訪れたとしても・・・

どこのお店の方も・・・

「んーーーなかなか手ごわいぞーーー」

「んーーーーどうやっていこうかなーーー」

なんて考えることはあっても・・・

「困るんだよねーーー」「こなきゃいいのに」

などと愚痴をこぼすようなことはないのではないでしょうか?

(買わなかったり冷やかしならあるかもねーーー(笑))

 

でも、これに似た発言を、しばしば私は耳にすることがあります。

それは・・・福祉専門職の集まりだったり、支援の現場だったり。

ときには教育の現場だって・・・

 

「何度言っても分からない人ばかりなんですよね」

「ヤル気を出してくれないから・・・ガッカリです」

「集中してくれないから困るんですよ」

「トラブルばっかりおこすんでうちには向かないですよ」

「うちのカラーじゃない」


これらは、福祉サービスを受ける利用者さんたちや児童・生徒さんのこと。

このことが直接ご本人や家族に向けられる場合もあります。Σ(゚Д゚)

自分の職種が・・・どのような人を相手にしていて、

どのような仕事を行なっているのか?

自覚をして仕事をしていれば、出るはずのない言葉なのではないでしょうか?

髪がぼっさぼっさで乱れてる人がいるからこそ、

それを切って整えることを職業にする人がいるし、

全く化粧っ気がなかったら、それをアドバイスしてくださる美容部員さんがいて、

その方の最善の美しさのためにアドバイスをするはず・・・

ファッションアドバイザーもしかりです・・・

 

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言われたことが理解しにくかったり、

意欲が行動に出せなかったり、

集中することが苦手であったり・・・

そのような困難を抱える人がいるからこそ・・・

その支援を職業にする人がいるのではないのですか?

支援に苦心し日々疲弊するあまりに、たまにはボヤいてしまうことも

あるかも知れません。

私もよーーーくあります。

(一人でね(笑)相談すべきことは相談しますけどね)

ですが・・・

私は、利用者さんの「障害」がゆえの特性に関しての

支援者側の批判・非難には・・・

大きな矛盾や理不尽が含まれていることを忘れてはならないと思います。

私が「顧問」としてかかわらせていただいているところでは・・・

なんでも話してきますが・・・(愚痴もね)

矛先がもし利用者さんに向いてるなーーーと思ったときは

「それは支援者側の問題」「矢印は常に自分」って言ってます。

この言葉は人に言っているようで・・・私自身の戒めでもあります。

 

人は何かあると・・・

「あの人が」「あそこが」「時間が」

何かに・・・矢印を向けたくなります。

でも・・・それってホント?

そうなる前に手立てを打ちましたか?

タイムスケジュール立ててますか?

リスクマネジメントは出来ていましたか?

よーーーく考えるとできてないのは

常に自分であることがわかります。。。

 

よーーーく胸に手を当てて考えてみましょう

(私がね(笑))

ほめ褒めワーク

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子育ての中でも人間構築の中でも

また・・・「障害」児・者に関わっていると

“ほめる”ってことその行為の大切さは・・・言うまでもないでしょうけど・・・
 

私も様々な研修の中で・・・、相手をほめるワークも体験をしてきました。

2人1組になり、交互にほめ合います。

「最低でも5箇所はほめるように」との指示。

どんなことでもいいんです。私は意外に簡単でしたが・・・

ところが、これを苦戦する人が結構多い。

「ほめよう」と意識して臨んでいるにも関わらず・・・

なかなか・・・適した言葉か出て来ないのです。(笑)

そんな参加者は、向き合ったまま、照れくさそうに苦笑するばかり・・・
とりあえず、私は見たままのことだったり

「笑顔が良いですね」「その色のお洋服がお似合い」「言葉遣いがきれい」

初めての方で知らないんだから・・・見た目とわかった情報で言うだけ・・・

すると、講師のお手本も披露してもらいましたが・・・

そんな感じでした・・・

モデル役の相手に向かって、

「すてきな髪型ですね」

「その洋服、似合ってますよ」

「帽子の柄が楽しいなぁ」

などと言葉が続きます・・・

わずかな間に、ほめた箇所は約20を超えました。

そして講師の方は言いました。

「私たちには無意識に相手の内面をほめようとする傾向があります。

だから褒めることが難しくなる・・・だけど・・・

実際は別に外見をほめても構わないのです」

 

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講師はそう言って、今度は、私たちに「見た目をほめてみて下さい」と指示しました。

そうするとあら不思議なことに・・・今までできなかった人も

外見はほめやすいのです。
 

素敵ななネックレスですね」「その靴はセンスいい」「髪の色が素敵」

「えくぼがかわいい」「目がぱっちりしてる」等など

みんな言葉がスルスルと出て来ます。

目に入ったものを、次々にほめ言葉に自動変換している感じなんでしょうか?

役割を交代し、今度は自分がほめられる番になりました。
組んだ相手が

「ゴージャスなネックレスですね」

「スーツがカッコ良いですよ」

「髪のつやがいい」

などと言ってくれました。

何だか・・・いささか面映ゆいものの・・・

それは・・・決して悪い気分ではありません

考えてみれば、目に見えていることに基づいた言葉なので、

事実無根という訳でもないからなのです。

「内面をほめるには相手を深く理解する必要がありますが・・・

外見はその場でいくらでもほめらることができます。

それに、ほめられる側は、内面だろうと外見だろうと・・・

どちらでも嬉しいのです。どちらでも良い影響を及ぼします。

そう!!難しく考えず、積極的にほめてみましょう」


私個人的にはあまり意識してやらないし、もしかしたら

得意ではないのかも知れませんが・・・できないことではありません。

私は日々、特に「障害」児・者や子ども達には

ほめることを意識はしています。でも実態は・・・

なかなか思うようにはできてないかもしれないなーーー

この経験は・・・【褒める】への“勇気”が湧いてくる・・・

そんな時間になりました・・・

相模原事件と私そして。。。

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今回は私の話から始めます。

私はそろそろアラカン57歳です。3人の子どもがおり、

「障害」者と言われる子どもを筆頭に、弟、妹の3人子どもがいます。

自分自身は2人きょうだい。歳も離れ異性だったこともあり

一人っ子同士のような関係。

私はずっとではないけど・・・

世間体が大切な母との関係性があまりよくない状態で育ったので

引っ込み思案で主義主張のできるタイプではなく、人の顔色ばかり見て

どちらかといえば・・・ひっそり生きていきたいタイプでした。

 

でも結婚して・・・子どもをもって・・・

その子が「障害」児で産れてくると・・・

覚悟して生きていかなくてはならないことが多く

「ひっそり」なんて無理無理!!

この子のために私が前に出ていかなくては・・・

盾になりときには矛をもっていかなくては・・・

って子育てになったときから・・・私は変わっていきました。

ショッピングセンターでも映画館でも公共施設でも・・・

どこにでも外出していました。

「障害」児が生まれてからの我が家はいろいろありましたが・・・

そのためにさらに私と母の関係性はさらに根深い違和感が付きまといました。

「人に話すな」

「なんていわれるかわからない」

「なんでこんなことに・・・」

そんな言葉が容赦なく私にかけられていったのです。

今では、ほかの子どもや私を加えた家族形態であれば、

レジャーにもショッピングにも普通に行けていますが・・・

そこに至るまでは数々の「子育て」についての衝突もありました。


母が、愛情を持って子どもに接していることを、私は知っています。

決して娘を愛していない訳ではありません。

母自身“きっと自分のできない”ことを意識しており、努力はしているのです。

障害者(障害そのもの?)への拒否感・抵抗感のようなものが、

母の心の奥底に、深く根を拡げているのでしょう。

(私も出会わなければどうだったかわかりません)

きっと克服したくても、情愛だけでは“削除”できないほど、

その根は今もどこかしぶといようです。

 

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少し前に起こった相模原障害者殺傷事件・・・

その時に何かで見た本だったかコラムだったか?忘れてしまいましたが

書いていたことを思い出しました。

2016年7月に起きた相模原障害者殺傷事件での、朝日新聞取材班による

報道などがまとめられていたと記憶しています。
前代未聞のこの事件は、社会に大きな衝撃をもたらした。

障害者福祉をめぐるさまざまな問題を浮き彫りにし、

犯行を招いたとされる“優生思想”の風潮、大型入所施設の是非、

重だ度障害者たちの実態などが浮き彫りにされました。

私が気になったのは・・・

殺害された障害者たちの実名がほとんど報道されていないところ。

そして、実名公表を拒んでいるのが、被害者の遺族たちであるということです。
亡くなった被害者に対しては・・。

それぞれ遺族家族としての情愛を抱いていたはず。

それでも、個々人の名前を明かすことはしませんでした。

私は私の母と、相通じるものを感じていました。
深刻さの度合いは大きく異なるものの・・・同じような思惑

「障害のある身内の存在を世間に知られたくない」

との思惑がうかがえてしまうからです。

その思惑の根を深く深くたどっていけば・・・

もしかすると・・・

障害者の排除を実行してしまった加害者の

メンタリティにまで至るのかも知れません。

罪に問われ、それを償うべきは、もちろん間違いなく加害者本人です。
ただ、事件が起きたこの社会の“土壌”から・・・

加害者も被害者も生じており、そうである以上、

私たちの誰も無関係ではいられない現状だと思っています。

このことに触れ、私は母について考えながら・・・

私が「障害」児・者に出会っていなかったら・・・

など深く考えさせられました。

そして事件と自分が“地続き”であることを思い知らされました。

これは他人ごとではない、

 

「障害」児・者の家族が子どもを殺める事件が福岡でもありました。

それもきっと・・・地続きなんです。

考える根底は人の心の奥底・・・掘り起こさず蓋をしている

根深いモノなのかもしれません、

 

 

 

 

「障害」児って才能ある?特別?

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「障害」児を育てていることを告白すると・・・

励まされ足り、褒められたりすることがよくありました。

でも、励まされている様で・・・

正直・・・傷ついてしまう言葉もあるのではないでしょうか?

(落ちてる時もあるし・・・ん?ってことも・・・)

たとえば・・・
「この子達ってきっと特別な才能があるからね」

「絶対にほかの子どもよりピュアに育つよ」

等もよく言われました。

「そうですね~」

と笑って返すけれど・・・実は結構・・・苦笑(申し訳ない)

だって・・・

それって

「障害児=特別な才能がかならずある」

ってことになりますよね?

それって・・・もしかしたら発した言葉の前に

「「障害」児だから」『特別だから』『他と違うから』

っていう見えない言葉が・・・ついている気がする・・・って

どこか思ってました。

 

「特別な才能があるからね」

「絶対ほかの子どもよりピュアに育つよ」

の他にも

「すごいねえ!」「そんなこともできるんだねーーー」

「かしこいねえ!」と言われることも・・・ありました。

(大したことではないことでねーーー)

もちろん私を元気づけようと思って言っるのはわかるし、

私を励まそうとされているのもわかる。

でも、それってねーーーとても小学校の高学年の子どもにかける言葉には

思えないなんてこと・・・よくありました。

今一度考えてみて欲しんです。

励ますその言葉の前に・・・

声にはしないけどどこか

「「障害」があるのに」

って言葉がふくまれていないか?

でもねーーー私だってわが子に秀でた才能があると嬉しいと思ってたし

そうだったら、最高だなーーーとは思っていましたよ。

 

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でもですよ。
それ以前に、日々のやることや困ってる姿を支えてあげることで必死なのが現状なんです。

中には・・・

他害行為、自傷行為、読めない行動、パニック、生活介助・・・・

本当に、本人も日々必死で生きてるし

支える方々も心身ともにすり減らして日々サポートしているんです。

夜中も睡眠しょうがいで寝れない、突然起きて叩かれたり、

家の中のモノを叩いて壊されたりーーーー様々あるんです。

もちろん、かわいい部分も沢山あるから・・・

そうしたところみて

「いい子だね~」「かわいいねーーー」

って言われてるのも分かってはいるんです。

でも・・・

「才能あると思うよ~」って若い母親にとってみたら・・・

私、日々ぶっ倒れそう、壊れそうなんですけど・・・

「障害」児は見かけるようにはなったけれど・・・

実際に関わることが少ないのが・・・当たり前に現実であり

そこが原因ではないかと思ってもいます。

私が子どもだった頃に比べて、発達しょうがいの診断も増えてーーー
それは統計データーでも出ている実態。

そうした背景も踏まえて、放課後デイサービスなどの環境が整ったりもしたし、

インクルーシブ教育も導入検討される場も増えてきた。

だから、「障害」児・者を目にすることも増えてきた。

しかしながら、増えたと言ってもやっぱり実際に

そうした子ども達と関わることって少ないと思うんです。

発達しょうがいの子ども達は、そのグループとして所属することが多いのが現実。

それに保護者達だって・・・

「「障害」児の親」達で固まって話に花が咲くことも多いのではないでしょうか?

インクルーシブとか、交流や共存とかの形や言葉だけが1人あるきしてしまっている印象・・・

だから突然に、社会に混ざることになった場合、

見た目に分からない「障害」のわが子のことを

「うちの子、「障害」があって・・・」と説明することも多いですよ。

そして、説明したあとのママ達の言葉も、

一生懸命に気を遣ってる感が半端なくて・・・何だか申し訳ない。

どちらも悪いことしてないのに・・・

福祉にも助けられているし、国や県、市町村の制度にも助けられている。

それでも緊急事態のときや家でのトラブル時には・・・

誰も助けてくれる人はおらず・・・ってことも

「障害」児・者をサポートする活動はひろまってきてはいますが、

「障害」児ママを助けるサポートは少ないかもしれません。

だから、いつも心身ともに悲鳴をあげている方が多いのだと思います。

「障害」児のママに、睡眠や食事をゆっくりとる日がくるのは

育児何年目になるのでしょう?私はいつだっけ?

そんな時に・・・

「絶対才能あるからね、見つけて伸ばしてあげなさいよ~」

なんて言われまくるたびに、色々思ってしまう・・・ってこと

あったなーーー特に近い人から言われると・・・きついもんですよーーー

相手は善意だしねーーー

あなたの周りにも・・・もし・・・そんな方がいたら・・・・

 

そんなこと思っちゃってるかも・・・なんて思ってもらえると

いいかなーーーなんて思います・・・

あくまで・・・私が思っていたこと・・・でも・・・

まあまあリサーチもして結構思ってる人もいましたから・・・

ご参考までにーーー

 

 

同じ診断名でも??困ってることありませんか?

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同じしょうがい名なのに、受けれるサービスに差があることがあります。

言葉も喋れないし自立できている事も少ない、そしてパニック行動や自傷行為や多害行為も多いので「重度」と診断されて療育手帳を貰う事ができる子

言葉は堪能ではないけれど出るし、まあ多少自立できていることもある、気持ちをコントロールできなくなることもあるけれど・・・比較的穏やかなので「軽度」ということで、申請しても手帳を貰うことができない子

でもねーーー困っていることの数は同じくらいありそうなんですよ。

「障害」と言うのはもともと目に見てわかりにくい方もいるし、そうでない方もいるけれど・・・

その中でも扱いやすい子を軽度として、扱いにくい子を重度と分けて考えるのってどうなんでしょう?

そして障害者手帳を持っている子、持ってない子

申請したのだけれど・・・

一定の知的や精神のレベルに達していないので・・・

ということで発行してもらうことができないってことも聞きます。

「障害」ということで、生きることに困っている人を助けるはずの手帳。

しかし手帳がないからということで・・・

手帳を所持している人と対等な支援を受けることも出来ない人も多い。

「障害」で配慮して貰えることはあるのだけれど・・・

やっぱり手帳を持っていること程の配慮は受けることが出来ないのは

理不尽だなあと思うんです。

障害名が同じだからということで・・・

「軽度」や「重度」の判断で

手帳が発行されるというはなんだかなあと思っているんです。

育てやすいし、支援が少なくてすむから・・・

見た目に分からないからと言う理由で

判断する側が「障害」の程度を「軽度や重度」と分けていいのでしょうか。

見た目に分からないからこそ、困っていることは沢山あるのに・・・

それに似たようなことが就学相談でもあっているのです。

幼稚園や保育園から小学校に上がるときに就学指導委員会で

発達の検査をされたうえでーー分けられることも多い。

「お母さんが地域の学校の支援級を希望されるのならば・・・

保護者や本人の意見が優先されますよ」

とも・・・言われるんですけどね

「支援学級に行く力があるのに・・・特別支援学校に行く必要はない。

それは親の意志で決めれません」

って言われることもあるらしいです。

特別支援学校に決まった親の意志は尊重されるけれど・・・

特別支援学級にきまった子どもは親の意志は取り入れても貰えないの?

って不思議に思ったんですよねーーーー

「特別支援学級に行く力がある」

「特別支援学級に行く力はない」

そういったついて行けるか?ついていけないのか?

のレベルで判断しているって言うのは何だか・・・おかしいですよね。

本当は・・・

その子どもにとって適切な支援を受けられる場を

親を交えて決めていく必要がありますよねーーー

手帳にしても学校選びにしても、そこなんではないでしょうか?

今の学校の分け方や、手帳の配布のやりかたは、診断はするけれど

「あとは日本のルールに沿って頑張っていってね~」

「まあーーーたまに手助けするよーーーだけど重度の子どもが優先だよ~」

と言われている様な気がしてしまうのではないかなーーー

同じ診断名の子どもたちを育てながら・・・

その差は一体、誰の困り感を基準に考えたものなのだろうと思ってしまいます。

 

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自分の地域ではない特別支援学校に行った為に、友達も知り合いも誰一人いない

先生も始めて見る人ばかりだし、慣れない生活時間帯に、慣れない新しいルール。

不安が募って当たり前。

だから、様々あるのは当たり前なんですよね。

でも学校からは

「もう少し頑張って貰わないと、みんなが怖い子だと思ってしまいます」

なんて言われたりするらしいです。

新しい環境で新しい場所で頼る人が誰もいない中で1人でがんばっているのに、

これ以上本人に何を頑張らせないといけないのよーーー

と、保護者は泣いていました。

「小学校の中で一番頑張っているのは、本人。

そして、誰よりも大きな壁を乗り越えてるのは、本人だよ」

と思っています。

「診断」だけうけてサポートが足りていない子どもっているんです。

身体の在り方でサポート方法を決めるって・・・

いいことだとは思えないなあと思うんです。

身体や精神の在り方(病名や目に見える症状)ではなく、

その子どもにとって困っていることがあれば助けてあげればいいじゃない?

サポートが必要なら助けてあげる必要があるでしょって思うんですよ。

なんで、それがわからないかなあーーーってことばかり・・・

そうしたことに悶々としている方が多いんですよね、

それはきっとこの辺だけではないですよねーーー

あなたの地域ではいかがですか?