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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

「障害」児・者の親だからこそ・・・

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私も、いい母親像があったときがありました・・・

いや、憧れていた・・・なりたかったです。

 でも、なれなかった(笑)

 正確には言うと私が思い描いていた「理想の母親」とは?

がそもそもだったのかもしれませんし・・・

また「子ども達が求める母親」が違い過ぎていたのかもしれません(笑)

 

でも実際に、子ども達が求めている母親像はきっと…(勝手な想像含む)

  • 自分の特性を理解してくれる母
  • 生きにくさを抱える自分達を理解してくれる母
  • いつも笑っている母
  • いつも守ってくれる母
  • 自分らしく生きているイキイキとした母

まだまだありそうですが、この辺りなのではないかなーーーと思います。

 

子ども達の求める母になりたい。

母らしくもだけど大人として尊敬してもらえるような親に

その方がお互い心地よいとも思うしね。

自由を求める子ども達のように・・・

私も自分らしく自由を求めて使命を感じながら生きることにしました。

 具体的には・・・

「母親だから」「〇〇ちゃんまま」といった、

枕詞をつける生活を辞めました。

 

私は今は仕事がほぼフリーランスなので、時間の組み換えに融通が利きます。

時間を組み立てることができるので

家族の時間も自分の時間もスケジュールを組み込んでいきます。

 

まーー時間があるようでなくて・・・

夜中も土曜日も日曜もなく働いていますが・・・

はたから見れば「障害」児・者がいながらも自由人に見えているかもしれません(笑)

 

小さなころは

「子ども達はどうしているの?」と言われたこともあります。

しょっちゅう連れ出して一緒に考動していることもありました。

(預かりや保育使いながら・・・)

もちろん(障がいがあるのに)は言葉にされることはありませんが、

聞こえてくるかのように感じたこともあります。

(私にとっては・・・だからこそやらなきゃいけなかった)

 批判の声だけでなく、心配や配慮の声だってあるし、

質問の裏に隠された気持ちは賛否両論だったことでしょう。

でも小学校高学年の子と親が別々に行動するのは、そう珍しくないことで普通のこと。みんなにとっての普通のことは、私にとっても普通。

「障害」児の親だから・・・という枕詞も時と場合・・・

誰に何と言われようと「私は私」として生きていくようになりました。

 

「休日くらいは、子どもと過ごさなければ」
「親子なのだから、触れ合う時間を長く」

 

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ここをきちんと確保する最低限のことはやってきました。

参観日は必ず参加、子どもの行事参加、1人の子どもに1回以上の役員をやる

土日どっちか家族時間確保・・・など等・・・

 ストレスを感じやすい家族の絆や生活を守るため、ひとりの人間として自分の自由も確保するようにも努力してきました。

周囲から見ると、我が家の暮らしぶりは「大変」に見えたり

「変わってる」って見えたりしているかもしれません。

 でも目指していることがある。目指しているモノがある。

 

 

「障害」児・者と言えど、それぞれ違うし

うちの場合・・・日本語の読み書きや計算、英語も一部できる。

それらの学びをゲームやネット、友達その他を通じて学んだ彼女なら、

これからも本気で好きなことと向き合えば夢が実現するんじゃないかなーーー

とも思っています。

みんなと同じルートで生きなくていいから・・・

彼女の好きなことを見つけることが出来たことを、

喜びに変えて形にしていって欲しいなーーーと思います。

それを形にするお手伝いをこれからもやっていきたいと思っています。

 

彼女の好きな時間・・・

カフェにいくことや、可愛らしいお洋服を身にまとうこと、映画にゲームセンター、カラオケも好きです。

 

今ある好きなことを、何かの制限がかかり諦めなくていい大人でいられ続ける

といいなーーーと思っています。

そして、それを諦めなくてもいい社会にすることをやっていかなくては・・・

 働きづらいとされている「障害」児・者のお母さん達・・・

(今はずいぶん福祉制度に助けられているかな?)

私は「諦めない」選択の中・・・様々な社会資源を使いまくり今があります。

(25年以上前になるなーーー)

 私が「障害」児・者に関わる中で学んだこと・・・

  • 生き方を見つめ直せる
  • 知らなかった世界を知ることが出来る

 

正直、ひとりでは、大変なことの方が多いですし

心が折れてめげそうになることもたくさんありました。

でも1人でないとわかり自分の殻を破って

「助けてくれる人たちがいる」ってわかってからドンドン救われ

やることもどんどん明確になっていきました。

 支えてくれる多くの人に出会えたことに、

今の自分の人生に・・・ありがたさを感じています!感謝!!

 

 

「障害」児・者の[何か]に困ったときには?

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人は誰しも自分のなかに「なにか」を抱えています。

その「なにか」を表現できるツールを・・・

「障害」児・者達に見つけて欲しいなーーーと思っています。

そして、それを見つけるためのサポートは

大人である私たちがするべきだと感じています。

 周りの人が良くコダワリと世間が呼んでいたとしても

人に大きな危害を与えるものでなければ

「自分の表現」「自分のストレングス」として大切にして欲しい。

 

「障害」児・者と接する中で、私は多くの社会的理解を求める言葉を

発信・発言していく義務があるなーーと感じてきました。

その気持ちはずーーーっと今も変わりません。

ただ、教育者や支援者は理解するというだけではなく・・・

「その子の強み」「その子の未来」といったことも観点の中に

加えてみてはいかがでしょうか?というより

加えていかなくてはいけないと強く感じています。

 

社会の仕組みの中でみんなと同じことを出来るようになる

という風に導くのが支援者・指導者の在り方ではないと私は思います。

そんなことをしていては・・・

「障害」児・者にとってはきっと・・・生き辛さが増すばかりです。

 「障害」児・者の親として、日々接するものとして・・・

感じるのは・・・これまで生きるのだけでも大変で・・・

世の中の大半の人に合わせた社会に

生きづらさを感じ生活している「障害」児・者達に

「あれしろ」「これしろ」「これ頑張れ」

とできないことをできるようにと・・・

求められるものが多すぎではないかなと感じます。

そして、その社会、世間から

保護者の在り方・・・

特に日々関わる母親に求められるものもまた・・・

多すぎるのではないかな?と感じています。

そこで追い詰められてしまう・・・

世間から遠のこう・・・静かにひっそりしてしまう…

よって孤独、枯渇、

何だか考え方が偏っちゃって・・・

子ども達が息苦しくなっちゃう ・・・

親は子どもを苦しめるつもりも・・・苦しめてる感覚もないんです。

だって・・・誰でも「よかれ」でやってるんですから・・・

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でもねーーー自分のことって自分が一番見えてないこともあるんです。

自分の頭の上の埃は・・・見て見ぬ振りをする人たちの中だけだったり

鏡を見てもみたいとこだけ見ていたら・・・気づけないものです。

「それってどうなの?」「どうしてそう思うの?」

そんなことを言ってくれる人・・・あなたの周りには何人いますか?

「これってどうですか?」「どうしたらいいですか?」

そんな風に適切にやったことがある人・・・経験者

結果を出している人に聴くことができていますか?

その人は5人以上いますか?

私自身はその人の「なにか」にいつも考えられるようにしています。

そして迷い悩んだときには・・・

その分野別に「聴く人」決めてます。

「聴く人」を間違えない・・・ここポイント・・・

自動車の免許を取るときに自動車学校の先生に聞かずに・・・

お花の先生に聞いたらどうなるの?ってことです。

正しい判断って決してできないよね・・・

子育てについて、「障害」児・者について・・・

聴く人に困ったら・・・ぜひ・・・ご利用くださいね・・・

「障害」~パニックの奥底には?~

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「障害」児・者のパニックの原因についてはどんなものがあるでしょうか?

  • 思い出した(フラッシュバック)
  • 予定に不安を抱えていた(見通しが持てない)
  • 感覚が嫌だった(食感、触感、眩しさ、音等)

 こんなことはパニックの原因としてよくあげられるものです。

 

私の周りの子ども達も・・

このようなことがパニックの引き金となることがよくあります。

 対処法として「どうするべきか」

となると

「原因を取り払う」

「落ち着ける場所に本人を移す」(他にもありますが)

などがあげられたりします。

 ただ、ホントは・・・その手前の対処として、

本人がパニックを起こさないように・・・

楽に生きるためにはどうするべきか?が重要で・・・

要はパニックを軽減させるには?どうすればいいのか?

について常々考得るべきだと思っています。

 

そのためには「表現方法を見つけること」

言葉での表現が難しいようであれば・・・

んーーー何か別のことで自分の中にある

「なにか」を発信できるてだてを見つけてあげなきゃなーーーと思います。

 

たとえ、それを周囲が「コダワリ」と呼んだとしても・・・そこを軽減する方法

人は誰しも自分のなかに、常に「なにか」を抱えていると思います。

そこには言葉・表情・文字や絵といった伝達方法を用いなければ

他人に理解されにくいこともあります。才能やスキルが必要なこともあるでしょう。

自分の中にある「なにか」を表現することで・・・

誰が喜んでくれたり、仕事に繋がったりすることはきっと幸せなことでしょう。

 人は日常を通し、自分の中にある「なにか」を伝え理解されたい、認められたいといった欲求を持っています。

特に言葉を持たない子にとって、自分の不安や恐怖を表現し理解して貰うことが出来れば、

きっと毎日安堵できることが多くなるのではないでしょうか?

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 多くの人が簡単に表現できる「怖い」「嫌だ」「不快」といったことを

伝えるツールを持たない子ども達は、きっととても苦しいでしょう。

自分がどれだけ恐怖や不安を感じているのか?

周囲に理解して貰えぬことを繰り返せば・・・

心を閉ざしてしまうことにもなりかねません。

 自分の気持ちを表現する方法にも出会えず、周囲の理解も乏しい。

さらには、自分ではコントロール不可能なパニックにより

大切な人たちを傷つける毎日

それを「苦しいね」「きついね」

の一言で片づけれることではないはずです。

表現方法が少なく、コミュニケーションもほとんど取れない・・・

「嫌だ」「やめて」なと簡単な言葉を発するときもありますが・・・

慣れた場所でなければなかなか応用がきかない・・・

そんなお子さんもいらっしゃいます。

 自分ではコントロール不可能なパニックを、

幼いころから何度も繰り返し続ける苦しみ

それを見続けている保護者も辛いことでしょう。

きょうだいや家族、友達や日頃から信頼している支援者にも

噛みついたり、ひっかいたり・・・

挙句の果てには・・・・自分までも傷つける。

 パニックばかりを繰り返す人生を近くで見続け

「苦しそう」だねという言葉で片づけていいものではないと

常に自問自答し続けています

親自身も自分の中の「なにか」を表現できるツールが不足していることもあり

育児や暮らしに辛さや苦しさを感じている方々も多いです。

 どこの家庭にも「大きな喧嘩」や「育児上のトラブル」は、あることでしょう。

ただ、「障害」児・者のパニックは・・・時限爆弾が爆発するような?

もう少し柔らかいい言い方をすると・・・

何かのスイッチが間違って入ってしまうような?そんな感じでしょうか?

 気持ちを共有する人が、一般的な子ども達に比べ少ないために

「自分を理解してくれる人は、誰もいない」

「誰も自分の気持ちなど、わかるはずがない」と思うこともあるかもしれません。

 子ども達のそうした「理解されない」といった諦めが・・・

拒絶・心を閉ざす・暴力といった歪んだ表現になってしまう可能性だって

あるのでは?ないでしょうか?

そうならないようにするためには、何が出来るのでしょうか?

 表現の限定的な子ども達にとって、親や支援者の助けだけでもまだ不十分。

それには、社会全体の理解がもっと、もっと、もっと必要だなーーー

と感じています。

「障害」児・者の問題に終わりはあるのか?

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「障害」児・者の生活の問題を

国レベルでお金の問題を考えるとき・・・

国家予算やGDP(国民総生産)が増え、日本が発展していくことは素晴らしいことで重要かつ大切なことです。

これって・・・政府と国民の努力の賜物だとも思います。

 

しかし個人的には、国の繁栄より国民一人ひとりの問題や課題、

幸せの方が大切だと感じています。

2020年の世界212カ国のGDPランキングにおいて、日本は第3位です。

国の経済発展の勢いはこんなに凄いのに・・・

国民一人ひとりの生活はどうも豊かには見えない。

世界第3位のランキングである経済大国の暮らしっぷりでない?

人の方が多いように感じるのは私だけでしょうか?

 

家庭ではワーキングマザーの慌ただしさ、ひとり親、「障害」者の生活困窮(コロナでの一般世帯も)、引きこもり、など等

数えたらきりがないほど金銭的な問題からみた貧困層の課題も山積みですよね。

 

経済大国として強くあることよりも・・・

社会の中に居るけれども社会の枠組みだけでは?って・・・人たちに

「助けの手」と「温かな眼差し」を差し伸べるようなお金の使い方を考えてみては

どうでしょうか?

生活強者?と生活弱者?って呼ばれる人達の

「心の豊かさの差がない国」って素敵じゃないですか?

 

ある県外の方から相談がありました。

あるご家族からお子さん(「障害」児10代高校生)が暴れて手が付けられない 

児相に相談したら

「連れてこれますか?」「相談支援所は?」

などと言われて・・・それどころではないから・・・パニックになってると

最終的には

「警察に連絡して!!」って言われた・・・結局はそこなんでしょうか?

って相談があった。そうか・・・そうなんだ・・・

そこそれしかないのか?つながりはそこまでなのか?

きっとその家族は救われなかったし、むしろ傷付いたことだろう・・・

 

これも「お金の使い方」の間違えから見えてくるものだと私は考えます。

どうでしょうか?

国の予算を莫大に投資して、福祉の建物や制度を作り上げる。

そのことで、公務という雇用が創出まで生まれます。

またよく・・・「困ったら頼ってね」と、上質な紙で題材的にポスター作って

制度を大きく宣伝します。

 

公務や政治に携わる多くの人が

「無駄な予算を削って、困っている人を助けたい」

とたぶん・・・本気で考えています。

その気持ちにきっと嘘はないでしょう。

ただ、そのために建築費用や人件費が莫大に投資されながら

行われているのではないでしょうか?

けれど、そのようなことを行っていても・・・

弱者の困りごとが解決しないままの状態が何年も続いていますよね。

不思議ですねーーー。これってなぜでしょう?

 

お金は貯めておくことも、消費することも自分で選べます。

「幸せになるために」は、お金とどう向き合えばいいのか?

どのような仕組みを活用すればいいのか。考えるのは自分自身です。

 

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私が選びとっていきたいのは・・・

「障害」児・者のために、貯蓄しなければ・・と節約に精を出すよりも

子ども達との思い出づくりだったり、未来こんな風になったらいいなってことに

お金を消費するようにしています。

貯金つまりお金は使ってしまえばおしまいだけれど

思い出は残るし・・・未来への投資はこれからも自分はなくなっても

残っていきます。

 

みなさんは、どのようにお金を使っていけば幸せになると思いますか?

 「自分が介護状態になったらいなくなったら(他界したら)
 子どもはどうなるのだろう・・・」

家庭での「障害」児・者のケアは親のみが行っている場合が多く・・・

意識的に日常を変えていかないと社会が介入してくれることは少ないです。

そのため、「障害」児・者の親は、歳を重ねれば重ねるほど

悩みが増えていくのではないでしょうか?

 

「これからの生活(世話)の問題」「自分の介護や葬儀」「残されたものの家族関係」「お金の問題」など等・・・

と、課題は山積みで・・・

この莫大な量の課題を、スッキリさせてくれるのは何でしょうか?

  • 世話の問題の委託
  • 自分の介護や葬儀・お墓といった生前整理の取り組み方
  • そして、子どもにお金を残す仕組みや、「障害」者のための後見人について   

 人生の終わりを考え、そこから逆算し

「残された人生をどのように生きたいのか」

「残りの人生において、何を大切にしていきたいのか」

を早め早めに考えておく・・・そんなことが必要だなーーーって

日々感じながら活動を続けています・・・

あなたはsどう考えていますか?

「障害」者とお金の素敵な関係作り

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私達だって・・・「障害」者だって・・・誰でも

お金が増えていくことは嬉しいものですよね。たとえ価値がわからなかったにしても

周りの様子だったり・・・言葉かけの変化で

何らか「喜び」って通じるモノですよね・・・

だから、お金を使うことも嬉しいと感じることが出来れば・・・

さらに幸せですよね。

 「障害」者がお金を使うことは・・・「節約」って言われ

あまりよしとされない傾向がありませんか?

でも・・・お金を使うことは、決して悪いことではありませんよね。

毎日頑張っている自分のお金を使って自分自身を喜ばせたり、

自分自身を労わったりすることは・・・

「明日からまた、頑張ろう」「今月もよく頑張った」と思える源となります。

 

他にも私が考える幸せな「お金の使い方」は・・・

  • 自分の時間を、有効活用するために
  • 知識を増やすために
  • 経験を得るために
  • 体のメンテナンスをするために
  • 健康状態の質を上げるために
  • 大切な人を喜ばせるために その他・・・

考えればきりがありませんが・・・いろいろありますよねーーー。

 とはいえ・・・私自身もこの考えに至るまでには

自分自身のお金のブロックがあり・・・

今まで培ってきた既成概念がありました。

まーー子どももそれなりに「お金」については失敗談があります。(笑)

持たせたら持たせただけきれいさっぱり使ってくるので・・・

持たせる額を吟味する・・・

遊びに行ってゲームセンターで使い切ることもあり・・・

ゲームの限度額を決める・・・

娘は・・・とかく人にプレゼントをするのが好き・・・

でも相手の好みを知るとかいつもではなく・・・差し上げる理由を持つ

ってことなど・・・考えるようにしたり・・・ 

本人の中でお金を使えば「日頃のストレスが緩和する」にならないように

勘違いしないようにと考えていきました。

お金のために働いて、そのことでストレスをため、

そのストレスを取るためにお金を使うという悪循環にならないように・・・

うちの子は・・・あまりお金に執着がないので・・・

この心配はほぼありませんでした。

 

現在は大きなお金にまつわる失敗もなく、

購入したいものは満足のいく買い方をしているし、まずはネットで調べて等・・・

使い方が上手に出来るようになっているのではないかと感じています。

 

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今、その子がやっていることは・・・

無駄遣いなのか?投資なのか?

本当に手に入れたいものだけに、お金を払っているのか?

損か得かで考えて本当は買わなくてもいいものや欲しくないものに

お金を支払ってはいないか?

この辺りを、見極めれるようになれば・・・

手元のお金の増減に一喜一憂することがかなり減るのではないかと思います。

 

私の親は「無駄遣いはよくない」「節約」「貯蓄が大切」

といって・・・欲しいものの消費も結構我慢し続けていました。

「無駄遣いはよくない」「貯金!貯金!」「節約!倹約!」

と・・・お金に何十年も支配される生き方は、とても苦しいのではないでしょうか?

父親は10年以上前に亡くなりましたが・・・

もっと「お金」に支配されない生き方ができたのではないかと・・・思っています。

80歳を過ぎた母親はまだ健在です。人生の残された日々を、お金に支配されすぎず、

心豊かに暮らして欲しいものです。

(父が亡くなってからはのびのび使ってるのかな?)

 

自分の人生も「お金の使いどき」を、しっかりと見極め・・・

子ども達のよりよい未来につながるようにしていきます。

「障害」~お金の価値を活かすためには?~

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私が子どものときには

「貯金しておかないと、後で後悔するぞ」

「しっかり使わないで貯めておきなさい」とい教えられてきました。

よって大人の言うように買いたいものは最小限に・・・

目に見えないものにお金を払うなんてしてきたこともありません。

「もったいない」って言う言葉を美徳とした生き方をしてきました。

(使い方を間違っていたかもね(笑))

よってそういわれて育ったから・・・

若い頃にチャレンジしなかったことがきっとたくさんあります。

いきたい旅行、観たい映画、やってみたい習い事・・・

「今さら何になるの?」「時機ににテレビであるよ」

「お金もったいなくない?」

そういわれることに・・・「そうかも・・・」「そうなんだ」

って挑戦しないできました。

よって・・・たくさんの後悔がある

お金の使い方を知らない人の多くは

「いざというとき」「何かあったとき」という言葉を多用しますが・・・

「いざ」の具体性がないから、本当は出すべき出資時を間違えるときもあります。

(オレオレ詐欺にひっかっかったりとか・・・)

 これから先10年、2お年後に今の数倍の貯蓄ができたとしても、

21年後にはこの世にいなくなってしまうかもしれないし、

先のことは誰にも分かりません。

人生は1度しかないし、だれもが明日の命はわかりません。

お金は最適なタイミングで消費していかなければ

「宝の持ち腐れ」「お金がよどむ」ことになってしまいます。

 貯蓄や運用について学ぶことは、悪いことではありません。

上手に運用することも大事なことかもそれません。

ただ、それよりも・・・お金をいかに世の中で回しながら

お金が喜ぶ使い方をしていくか?みんなが喜ぶ使い方ができているか?

投資や運用って何人の人を喜ばせられますか?

それが「障害」児・者のこの子の未来が輝くことになるのでしょうか?

それって後世・・・誰でもが・・・

継続継承できていけることでしょうか?

「障害」者だから悩むことの多いものでしょう・・・

健常児と言われる人が管理できる部分を管理できない部分をさあどうしよう?

って・・・なりますよね?

早めに親として何がこの子達に残していくべきものはナンなのか?

何を準備していたら安心なのか?それはお金なのか?

んーーーそれよりも「人財」なのか?

もっと社会課題を解決することなのか?

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「お金」だけにとらわれるより・・・その「お金」をどう使い

これからのこの子達の未来に何をするべきか?

早めに考えていきたいですね・・・

今やるべきこと・・・今この子達のために「投資」することは何なのか?

ぜひ考えていきましょう

「お金の使い方」について考えていく・・・

この方が、日々を暮らしていく中で、より大切なことだと私は思います。

有意義な未来をつくっていきたいですねーーー

「障害」児の親がやるべきこと?!

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「障害」児・者の親だからできない。

自分の人生は・・・「この子育て」しかない

そんなこともよくお聞きしますが・・・

親もみなさん・・・自分の人生を生きましょう。

「他人に迷惑をかけることはいけないこと」とか「誰もやってないじゃない」

とか・・・

「母親なのに」「子育て中でしょ」といった気持ちは・・・

全て周りを・・・世間体を気にしているからこそ感じるものです。

自分の人生・・・周りや世間体のために生きるのではないですよね?

よって・・・自分の人生を生きるようにしましょう。

 

「障害」児・者の親は、子どもの成長と共に

幼稚園保育園時代から小学生になるとき、学校選びにとても悩みます。

「自分以外の人の人生を決める」

という非常に大きな決断を迫られるがゆえの悩みで・・・

地域の学校や通常級に入れなかったことを悲観視する方もいらっしゃることでしょう。

 でも・・・

「障害」児の多くは、大勢に向けた授業では理解できなくても、個別の自分に見合ったカリキュラムで学ぶことで、ものすごい伸びしろを発揮する子もいます。

よって・・・どこで学ぶか?よりもこれから

「どんな人生を送らせたいか?」「どんな社会を望むか?」を考え

早くその子のこれからのために「考動」を起こすことです。

 私の子どもは、支援学級在籍でしたが、本人の体力面が大丈夫な限り

ほとんど「現学級」(現実社会でいるべきクラス)で生活していました。

でも学年が進む中でときどき「個別支援」も受けることもありました。

仮に私が「多くの子達と同じであること」を目指し「通常級」だけを選んでいた場合、子どもは人一倍頑張ってくたくたになって毎日を過ごしたことでしょう。

その苦労する姿を見て、私も苦悩し、自分を責め・・・

学校選択や自分の考え方について後悔していたかもしれません。

私は臨機応変に対応してきました。

そして・・・なぜそうするのか?を

先生や周りの子ども達と「理解」をしてもらいながら・・・やっていました。

 「障害」児・者は、機能的にも生き辛い境遇が人一倍あること。

これを周囲が理解してもらうことで、生きやすい環境に身を置くことができること、

別そうすることがときに・・・すごい伸びしろを見せてくれること。

そんな本人の「強み」をサポートを親としてすることを、とても重要に感じています。

 

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これから生きていく中で、学齢期にしかできない大勢の仲間ももちろん大切です

でも、それ以上に本人が「自分を大切にすること」も大切です。

現実的に、大勢の人と違う行動をとることは勇気も伴いますし。

親の心境として難しいことでもあるかもしれません。

しかし、誰かに合せて無理しながら生きるより、

自分の人生を生きた方が、生まれてきた自分の価値を感じることが出来ると

私は思います。

よって・・・子育て期間は親の学び、親の社会観が大きく影響します。

それが・・・この子達の未来を引き寄せることにもなると思います。

さーーあなたは・・・

今の子育て期間・・・どんな親になりたいですか?

「障害」児・者を育てていると聞く言葉

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「障害」児の母親になると不思議な言語がや不思議なことが増えます。

 特に周囲の言動が一般の方に言う言葉かけとは違います。
「「障害」とは、個性のひとつだ」「個性は才能だ」

と言ってくださる方が、急増!!

一方母親に対しては・・・「お母さんは強い」「子どものために頑張ってる」

などと、よく言ってくださいます。

 

この言葉から・・・ 

「母親は強いもの」と信じる人は非常に多いのですが・・・

いえいえ・・・母親とはそんなに強くはありません・・・

とても弱いものなのです。

 

出産により経年変化に加速がかかっている、ホルモンのバランスも崩れやすい。

よって肉体的にはものすごく弱い。

心と体は繋がっているために、心も弱りやすい。

肝っ玉座っている人がたまーーーにいますが・・・

これと母親像とはまた・・・別問題です。

年齢を重ねると肝っ玉座った人が増えるなーーーと個人的に感じています。

 「子どものためなら、頑張れる」

という言葉はあながち間違いではありません。

私も、子どものためだからこそ頑張れることが多いのは事実です。

ですが・・・それだけでは限界があります。

しかし、多くの人の母親に対する認識は

「限界知らずで、どこまででも頑張れる人」なのです。

 

「障害」児・者の親にとって「母親の生き方」を提示されることは・・・

苦痛の方も多いでしょう・・・

教育、働き方、生き方の多様化を賞賛するのなら・・・

そろそろ「母親の多様化」も感じてほしいと思います。

 

「母は強し」「子どものためなら、頑張れるはず」

などの、周囲の声を過信すればするほど

「弱い自分」「頑張れない自分」は・・・・

価値がない、できない自分、母親失格のように感じてしまいます。

自分のことをどんなに「ダメな母」と感じることがあっても・・・

あなたは存在しているだけで、子ども達にとってはものすごく価値のある人なのです。

 

人と比べた育児をしないことは・・・

母親業をする中でとても大切なことだと私は考えます。

 

また・・・様々な風習に惑わされないことも大切です。

 

日本には、古来から伝わる「観光」や「食」「行事」といった、

素晴らしい風習が数多く存在します。

数百年ものあいだ、こうした日本の伝統が引き継がれてきたのは、職人の方々の努力の賜物でしょう。

継続継承の意志をもって、一生懸命引き継いできたものなのです。

 

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しかし「受け継いできた」という部分だけが美徳化され、

現代に見合っていない風習文化まで「受け継ぐことが美徳」とされ、

社会全体へ大きなストレスを与えています。(母親像、家族像等)

 昭和の時代、大家族に中で育児の手助けの多かった時代の母親と、

ワンオペでワーキングママが主流の現代社会においては・・・

同じ風習に習って暮らすことなど無理に等しい状況なのです。

 

日本には「良薬は口に苦し」という古くからのことわざがあります。

これは、どんなに辛くても「耐え忍ぶことが美徳」とされた考えです。

「郷に入れば郷に従え」これも同じです。

どんなに不快な環境でも、周りに合わせて耐えしのぐことを美徳とした考えです。

この言葉の数々も使い方にもよるかもしれませんが・・・

言われることは「我慢」「忍耐」

 

育児と仕事の両立は可能です。

ただ、自分の時間をほとんど持たないまま・・・

10年以上を過ごすのは過酷すぎるでしょう・・・

 ただでさえ現在、母親業が過酷なこの時代に、

「障害」児の親が風習の求める理想の母親像を目指して頑張り続けるのを見ると

「残酷」だなーーーと思ってしまいます。

 

「障害」児・者やその家族が、周囲に助けを願うことは普通のこと・・・

周囲と同じようにできないのも、当たり前のこと・・・

手助けして欲しいと堂々と要請できるべきだし

「疲れた・・・少し育児を少し休みたい」

と主張することも、ときにに大切だと感じています。

(その弱音を吐ける場所に私たちの会はなっています)

 

我慢こそ美しいなどといった風習は・・・

自分の中で早くピリオドを打って

「弱音を吐ける自分」を認めていきましょう。

表記「肌色」「ペールオレンジ」「うすだうだい」

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もうすでに遠い過去のことですが・・・(笑)

昭和生まれの私が子どものころは「肌色」と呼ばれるクレヨンや色鉛筆がありました。現在の表記は「うすだいだい」や「ペールオレンジ」に変わっているそうです。

(22歳の子どもが保育園時代だったかなーーー子どもに教えてもらいました)

 これは、世界中を見渡せば肌の色は人それぞれなのに

「肌色」という固定概念をつくってしまうことで、

標準的な肌の色が存在してしまうといった考えが主張されてきたからだと思います。

 当時は「一様に肌色を決めるのは差別だ!」と、論議されていましたが・・・

ときを経て、娘が肌色のことを「ペールオレンジ」と言ったときに、

「そうなったんだ~!」「そういう言い回しねーーー」

と、時代の流れを感じました(笑)

肌色という言葉を反対した方々の主張が、認められたのですね。

 当時は・・・

「肌色ってねーーーいろんな色があるよねーー」

って思っていた私ですが・・・

肌色が論議されるなかで

「ねずみ色はどうなるの?」「あーーー灰色とも言うか?」なんて思ったり・・・

ねずみだって、多色だからねーーーって(笑)

 

色の表記が変わって数十年。肌の色で論議するなら

人種差別はなくなったでしょうか?

 

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決して「なくなった」とは言えない現実でしょう。

色表記の背景から学ぶべきは・・・

言い方、呼び方への配慮よりも、差別意識の絶滅を目指すことではないでしょうか?

正しさや配慮って、結局のところ何なんでしょう?

「「障害」児・者のあなた達を、言葉で不快にさせたりはしない!」

という理由で「障がい」「しょうがい」という表記も出てきました。

この配慮は、正しくもあるようで優しくも聞こえる・・・

甘美な言葉です。

その気持ちに、嘘はないことを理解しているつもりです。

 しかし、本当に変わっていくべきは・・・

「表記へのコダワリ」より「社会のバリアを、取り払っていくこと」

ではないかと私は考えます。

(私たちの会はあえて「障害」と表記しています。賛否両論あり(笑))

 「肌色」が「はだいろ」に変わったように・・・

「障害者」と「障がい者」「しょうがい者」の「どの表記がいいのか」

といった会議が開かれれば・・・

そこには公務の方々への人件費もかかるでしょう。

その人件費で、できること・・・例えば

街のスロープが増えたり、歩道が整備されたり

街の段差がなくなったりするほうが、「障害」児・者にとっては

よほど助かります。

娘を見て周りの方からよく言われたのは

友達みんなが当たり前に出来ることを、同じように頑張ると

「がんばってる」「よくやってる」言われることがあります。

そして時には涙を流される。

それが「優しさなのか?」「思いやりなのか?」

「普通ではないのに・・・」って前置詞がつくのか・・・

 

 乙武さんもよく言っていましたが・・・
「「障害」をこの体を不幸だと思ったことはない、ちょっと不便なだけです」

 

きっと娘も・・・こう思っているんだと長年育ててきて思います。

そして・・・これからも一緒に幸せになっていきたいと思ています。

「障害」「障がい」「しょうがい」表記について

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「障害」「しょうがい」「障がい」等様々な表記があります。

というか・・・しますよね・・・

みなさんは、どのような表記を使われていますか?

「障害」とは本人のことを言うのではなく、

社会側の問題が多いことだと私は考えます。

 

「障害」児・者が抱えている「生き辛さ」は、

本人が健常者と言われる人達の暮らしの基準に合せ

努力を積み重ねているから感じてしまうことなのかもしれません。

 

「障害」児・者が自分の心身のキャパシティ以上に頑張らなければならないのは、

多数派の暮らしに合せなければならないような社会の仕組みにあり、

彼らの心身の課題であるハンディキャップに対応していない設備や

制度の少なさに問題があるのではないでしょうか?

そんな社会の中にいるから「障害」児・者の暮らしが追い詰められ

何だか違う?可哀想?にみえてしまっているのではないでしょか?

 「障害」児・者を生き辛く、肩身の狭い不安に駆られる思いにさせているのは

整備されていない環境やまだ足りない支援や制度化もしれません。

そしてそのような環境だけの問題ではなく・・・人の「理解」も足りないのではないでしょうか?「知らない」「知ろうとも思わない」ってこと・・・

まずその視点を大切に考えると、変わるべきは「障害」児・者なのかな?

もしかしたら周りの社会の方ではないかな?って

気づかれることもあるのではないでしょうか?

 全ての人が当たり前に「自分が描いている夢」を実現しようと頑張れるのに対し

「障害」児・者が諦めなければいけないことをおかしいことと気づき、

「障害」児・者にも夢を希望を思い描いてもらうためには・・・

「どのような社会的配慮が必要なのか?」

と、考えることを「配慮」や「優しさ」そして「合理的配慮」というのでしょうか?

 そう思うと「表記についての論争」なんてあるけれど・・

私は文字なんてどうでもよくて・・・

よって私たちの会はずーーーっと44年前から

@筑紫野市「障害」児・者問題を考える会 のままです。

(よく叱られます。「障害」児・者団体の癖になぜその表記かと・・・)

でもねーーー

「障害」児・者の暮らしやすい社会は、健常者と言われる人にも暮らしやすい

心豊かな暮らしのはずだと思うのです。

そのような心のゆとりがもてる社会となれば、

「障害」児・者やそのご家族の方々も表記についてなんて

「どちらでもいいですよ」と思ってくれるはずです。

表記事態は法律でも「障害」と漢字で書かれていますしね・・・

私たちの会は法の表記が変わったときにはじめて

「障害」(カッコつきのしょうがい表記をやめます)

よって・・・「」つき・・・で書き続けるんです。問い続けるんです。

「なぜ?「障害」って書くと思いますか?」

「このカッコにどんな意味が?問いがあると思いますか?」

私たちは44年前に・・・

この会をつくった先輩方の深い思いを受け継ぎ大事にしていきたいなーーー

って思っています。

さーーーあなたは・・・この「」の意味わかりますか?