昨今は、発達しょうがいってよく聞くようになりましたよね?
義務教育の中でも増え、特別支援学級が急激に増えています。
また、教室の中でこのような子どもたちと一緒に学ぶ機会が以前よりは増えていると思います。
すると、子どもから「どうして○〇ちゃんは、じっとしていられないの?」とか「どうして急に大きな声を出すの?」など、その子の特性について問われる保護者も少なくないのではないでしょうか?その時、あなたなら・・・どう答えますか? 重度の身体、心身しょうがいも含めしょうがい者について、子どもたちにどう伝え、どう導けばよいのか?迷うところではないでしょうか?
私は、人間誰しも多かれ少なかれ「障害」というものは日々持っていると考えています。
例えば、私自身は「老眼」です。人を頼らないと見えないことも多いです。また、身長が低いので高いところのものは、やはり人を頼ります。
それも日々の中では「障害」の1つではないか?と思うのです。
太っている、やせている、極度の緊張症、どもっちゃう、震えちゃうってことも困りごとであり、その人にとっては「障害」でしょう。
みんな何かしらの困難を抱え、完ぺきな人間などまずはいないはずです。
なのに、「あの子はしょうがい児だから…」「あの子は「普通ではない」」
なんて言ったりして・・・子どもに友だち付き合いをさせないということはありませんか?
「障害」は外から見えやすいものと、見えにくいものがあります。
「視力が見えにくい」などはコンタクトレンズを装着してしまえば他人からはわかりません。また聴力に問題がある人もなかなかわかりづらい見えにくい「障害」と言えるでしょう。
歩行が不自由で、車椅子や白杖を必要とするのは、見えやすいかもしれませんね。
もし子どもが「障害」について何か聞いてきた時には、
「見えやすい場合とそうでない場合があるし、あなたも私もみんな、何らかの困難やできないこと困りごとを持っている。
だから、別に意識せずに自然に接すればいいよ。その人のよい所や、自分と何かしら気が合っている部分、共通することを見つけて、それを尊重して付き合うことが大事なんではないかな?」
みたいなことを言ってみてはいかがでしょうか?
日本はまだ、身体、知的などの見えやすい「障害」児の家族の負担は大きく、苦労も絶えないのでしょうか?
私は「親戚が来るから連れてこないで」「帰ってこなくていいよ」と言われたことがあります。
私はその時、とても悲しかった。でも今は、むしろ
「ああ、どんな人も多かれ少なかれ、困難を抱えているのに、そういうことが、まだわかっていない人たちがまだいるんだな」
と思います。この世の中に無駄な人間など一人もいません。
現に、私の家の結束が固いのも、仲が良いのも、娘の存在のおかげなのです。
海外では宗教の影響もあり、「社会的弱者を助けるのは当たり前」という文化があるようですね。
日本では小さなころから「人様に迷惑をかけてはいけない」「人にむやみに頼らない」という文化が根強く、目に見えやすい「障害」児者の人にとっても生きにくい社会かもしれません。
しかし、もともと人間は誰しも他人に迷惑をかけながらでしか生きていけないのですから、本当は“お互い様”なのだと思います。
海外のように「人は迷惑をかけながら生きるものだから人に寛容になりなさい」
人は本来、生まれたとたんに「何もできない」ので周りに、他人に迷惑をかけながら、助けてもらいながら生きていく。
そしていつかは自分も「助ける」側に回ることもあるかもしれない。ならないかもしれない・・・
でも・・・「それでもいいんだよ」の価値観。
寛容さを教えていけたらなー--って思います。
あなたはどう考えますか?