福祉の現場にいると・・・
子ども達に「愛」とは何ぞや?
って突きつけられる時があります。
愛にも様々な形があって・・・中には・・・
損得、お金が絡むこともあったりなんかして・・・
では、欲望を伴わない愛とは、どのようなものなのか?
確か何かの本ではバナナの例え話で説明していました。
男性がバナナを5本持っていました。
飢えた物乞いに出会った彼は、バナナを分けてやることに。
普段はバナナを3本食べて満腹・満足するところを、
彼は良心から2本食べて我慢し、
残りの3本を物乞いに与えました。
ところが、物乞いはバナナが嫌いだったのか?
その場でバナナを投げ捨ててしまいました。
男性は「恩知らずめ!」と激怒してしまいました。
ですが・・・よく考えてみてください。
彼がバナナを3本食べて満腹・満足した上で、
食べ切れない2本のバナナを物乞いに与えていたとしたら・・
もしかしたら・・・あまり立腹せずに済むのかも知れません。
男性が我慢した1本のバナナ、
これが愛と欲望を分けるのではないか?
と確か書かれていた気がします。
我慢したバナナには・・・どこか感謝という見返りを期待する。
彼の欲望が込められているのです。
期待した見返りが得られなかったからこそ・・・
物乞いへ怒りの感情が生じてしまう訳ですよねーーー
要は
「してあげたのに・・・」「やってあげたのに・・・」
自分の善意が否定されたように思ってしまいます。
相手はどんな風に思っているのか?
相手の気持ちは「抜き」ですよねーーー
しばしば・・・相手にしてあげることで満たされたい。
そんな気持ちになってしまっているのかもしれません。
私も「障害」児・者の方々にたくさん出会い・・・
たくさんの愛を受け取るときに・・・
愛のために私たちができる第一歩って何かなーーー?なんて考える。
その中にはきっと・・・
「自分をきちんと満たしてやること」
って言うことがあるのではないかなーーー
好きなものを満腹・満足するまで食べておくということですかねーーー(笑)
例えば・・・自分が必要とするモノが・・・
人間的な成長などによって減っていくことがあれば・・・
やがてその人は他者に与えられるモノは増えていくのではないでしょうか?
宗教や倫理のなかで見ることでは
“欲望の滅却”を教える場合が多いけれど・・・
自分の身を削るようにして・・・弱者の援助に尽くす人たちがいます。
それもそうなんですが・・・(案外やりがちなんで・・・)
でも・・・誰かを幸せにするためには・・・
まず自分が幸せでなければならない!
満たされていなければならないって思うんですよーーー。
まず自分が幸せにできなければ・・・
誰かを幸せにすることはできないのではないでしょうか?
福祉に携わる者として・・・
「障害」児・者に向き合うとき・・・
彼ら彼女らに日々接することができて・・・幸せだなーーー
ってよく思います。だけど・・・それは・・・
私自身が彼ら彼女らからいつも【エネルギー】を受け取っているから・・・
つまりは・・・愛を受け取っているから・・・
辛い、しんどい・・悲しい、苦しいがないんです。
不謹慎な言い方ですが・・・
問題が起こるたび・・・相談が来るたびに
「お!また考えることができる」「お!出番が来た」
なんて・・・思っちゃうんです!!
やはり日々やること満載が・・・生きてる原動力なんですねーーー