☆自分が好きなもの・・・
好きな人
尊敬する人・・・その人の思考を学びたい人
その人の様になりたい人・・・近づきたい人
失くしたくないモノ・・・
・・・そんな自分にとって大事なもの
★自分の苦手なもの。。。
考え方が理解できない人
思考を学ばなくても困らない人。。。
ナーバスな人。。。距離を置きたい人
ふれなくてもさほど、困らないモノ。。。
・・・そんな自分にとって必要だと思えないもの
自分の“生き方”の中で誰しも前者は
どちらかと言えば積極的に近づいていくものだと思いますが
①「〇〇の講演良かったです~」
「近々またくるみたいよ」
「あ~もう1回聴いたから・・・・」
・・・・・・。
②「〇〇さん好きだったよね。今回久々に
▼日に講演が近くであるんだって・・・」
「あ~その日は、ママ友のランチ会で~」
「自分の美容院の予約日で~」
「子どもの習い事で~送迎が~」
・・・・・。
“好き”の温度差もいろいろだな・・・って
良く思う・・・
①の場合、私の好きは
同じ話でも聴くとき、内容は多少変わったりするし
好きな人の話は何度でも何度でも聴いて
体得していきたいと思うほう・・・
ましてや人間は忘れる生き物・・・
どんなに苦しくもがいたことも
子どもを産むときのあんなに痛かったことも
凄く嬉しくて心躍ったときも
時間と共に風化してしまう・・・
だから・・・
好きな人の話
覚えとかないといけない話
自分が身につけなければいけないことは
5回以上は聴くし、
体得したいと思えることは録音したものを
常に聴き流すことができる準備をする
くらいのことをしている。
(まあ、年齢的なことも大いに関係するのだが・・・)
②の場合、私の好きは
いつ会えるか“チャンス”の頻度と
“今後の大切さの度合い”で選択する。
1カ月先1週間先にできることと
半年先、1年先のこととどちらを優先するのか?
その用事は人に頼めないのか?
何て思う・・・
好きって
特に自分の“学習”って(子どもにはやれって言っても)後回し・・・
ってコト・・・
やってもやらなくても・・・って感じの
“好き”なんだなあ~って思う。
自分が身につけるもの・・・によって
“子ども”も“家族”もこれからの在り方も
変わっていくと思うのだけど・・・・
これが、好きなアーティストだったり
イベントだったりすると
どんなことをしてでも都合をつける!!!!
のは良く聴く話・・・
後者においてはもっと触れることはないだろう。
★「あの人がくるなら来ません」
★「あの人の話は偏っているから聴きたくない」
★「あの人の話は私には関係ないから・・・」
★「あの人と関わるとろくなことはないから・・・」
★「こんなひとらしいですよ~」
まあまあ。。。まだまだイロイロ。。。。
まあ距離を置きたいのは私も一緒。
だけど、すべてを“否定”するものでもない。
学ぶべきことが“ない”とも思わないし・・・
人の“噂話”は自分で確認しない限り、鵜呑みにはしない。
関わることは“距離”を考えるので
それほど大きなリスクはない。
だから、誰かが
「勉強会あるよ~」とか聞くと
時間の都合がつくと行くこともある。
その中から、やはり“学び”はあるのだ。
また、“関係ない話”って
例えば、子育て中の“介護”だったり
普通に生活している人が“●●法について”とか
若い方が“高齢者問題”とか
まあ、障害に関わらない人のしょうがい児・者問題も
そうだろう・・・
けれど、時間があるなら聞いといて損はない。
“それは、いつか通る道”であろうから・・・
だって・・・
みんな、間違いなく“歳”は取る。
長く生きれば“認知症”になるかもしれない。
また、親が“介護”のお世話に思わず早くなるかもしれない。
病気になったり、けがをしたりで
しょうがいサービスを受けることになるかもしれない。
だから関係ない話ってないのだ・・・と思う。
大人になって
自分の“好き”って考えたことってありますか?
子どもに胸を張って
これが“好き”だって、これが“私の人生”だって
自分のコアを語れますか?
どんなにかっこ悪くても不格好でもいいから・・・・
私はこんな人間なんだ・・・
いつも
胸を張って子どもに言える人間でいたい。
そう思っている。