今私がこういう状況にいられることは 偶然である。
よくそう思うことがあります。
私が特別恵まれているとか?恵まれてないとか?
んーーー人と比べればいろいろとあるのでしょうが・・・
子ども達と話していても
保護者と話していても・・・
『あーーーコの境遇私だったらどうだろう?』
『この環境だったら私は生きて行けただろうか?』
『その年で私だったら耐えれただろうか?』
なんて・・・考えることが多くある・・・
よく『自己責任』って簡単に使うけど・・・
相手と自分の立場が逆転していたら・・・
そう考えると簡単に『自己責任』なんていう言葉は出てこない
『でもよく人生のどん底から這い上がってる人もいる・・・
その方たちは努力した・・・って言ってるじゃあないですか?
要は・・・努力が足りないのでは?』
なんて意見もありますよね・・・
なるほど・・・確かに・・・
数千万の借金を死に物狂いで完済
生死の淵から市にもの狂いで奪還・・・
そんな話も確かに聴きますよね・・・
でも・・・その話をする方は・・・
それまで生きてきた過程の中で教育を十分に受けていたり
過去に安心して生活できる基盤があったり
もともとは素敵な家庭があったことがあったり
努力をする根源があった方が多いのです。
その中の体験の中で[頑張る]選択ができた・・・
でも最初から自分が体験したこともない環境
その生活を想像できないこと
教育を受けていない・・・
そんな『想像することさえできていないこと』
そこを見聞きすると・・・
その方たちがその子ができないこと・・・を
『自己責任』という言葉で片付けることができるでしょうか?
『努力が足りないんだよ』って言えるでしょうか?
多様な生き方・・・
『多様性』もよく聞く言葉になりました。
『みんな違ってみんないい』
これも言葉の取り方によっては・・・[分断]を招きます。
他者の違いを認め合い尊重しましょう・・・
って意味合いで使われますが・・・
それが相手への『ラベリング』につながったとき・・・
それは形を変えていきます。
稲盛和夫さんも言っていますが
『利己』と『利他』
その判断基準を間違えると良い仕事は出来ない。
周りの人のことを考え、思いやりに満ちた『利他の心』
そこに立って判断すべきだ・・・と・・・
多様性を言うとき・・・私の視点は・・・
『この人にはまだ見えていない要素が必ず隠れている』
ということに注目します。
どんなダメ出しをされている子でも
この子の中に[多様性]は隠されている・・・って思うのです。
人はみな・・・多くの顔を持っていると思います。
私にしたら・・・母、妻、コミュニティの代表、支援者、顧問・・・
その[顔]はそれぞれの場所で違う個性を発揮しています。
要は違う『顔』顔をもっているのです。
今・・・私がこういう状況にいられることは偶然である
そう日々に感謝しながら・・・
人と向き合い・・・その子ども達や出会った人の中に
『多様性』を見つけること・・・
それって『楽しい』と思える今日この頃です・・・