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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

配慮ある多様性に向けて 2

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昨日から・・・多様性について触れる中で

私たちがいあm直面している課題の多くは

多様性の側面に由来している。のでは?と感じる。

若い人達の多様性の処し方がある意味それを象徴している。

今の大学生くらいは、ずっと

『みんなちがって、みんないい』

と聴いている。

『違うことを批判してはいけない』

『障害者を差別してはいけない』

ことを頭では十分理解している。

『みんないい』んだから、存在は肯定的に認めないといけない。

 

でも・・・じゃあつきあうかというと、つき合えない

つきあわない。

存在は肯定的に認めるが、つき合えないので共同性は生まれない。

 

むしろ目につくのは『敬遠』と『遠慮』と『攻撃』だ。

 

『意識高い』はほめた言葉、敬った言葉だ。

しかし実際の用法は

『うわっ、意識髙っ』と使う。

そこには、自分はつき合いたくない、という

メッセージが込められている。

 

『意識高い』は他人を敬して遠ざけるために使われている。

 

『個性的』も同じ。

多様性礼賛の中では、個性的であることは

『良いこと』だ。

しかし『あの人は個性的すぎる』と自分は

つき合いたくないという意思表示としても使う。

 

『みんなちがって、みんないい

(だけど自分はつき合いたくありません)』というのが『敬遠』

 

次に『遠慮』

 

積極的な優しさとしてもあり得るが、消極的に使われることもある。

『関わってもどうせ背負いきれないから』

『違うんだから、どうせわかり合えないから』

『かえって迷惑かもしれない』

こうして関わらないことが正当化される。

 

『みんなちがって、みんないい

(だけど自分は関われません)』というのが『遠慮』

 

そして『攻撃』

 

対面する場面ではほとんど聞かず、主にネット上で

展開されている。

『みんなちがって、みんないい』という上から与えられた

『善いこと』のタテマエ感にうんざりした時の

はけ口として活用されることがある。

『みんなちがって、みんないい

(だけど自分は許さない)』というのが『攻撃』

 

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ダッテ違うんだから違うものとつき合うのは

同じものとつきあうよりめんどうなのだ。

そのめんどうくささが、違うモノばかりの中で同じものを

探させ集まらせ(細分化)、その居心地の良さの中に

踏みとどまることで違いを理解できないものにしていく(分断)

 

それは多様性からの逸脱ではなく、

多様性がもたらす当然の帰結だ。

 

多様性だけでは足りない

日本人同士でも健常者同士でもたとえ家族であっても

人と人はすでに十分多様だからだ。

多様性の持つ細分化と分断の傾向と向き合いそれを乗り越える

要素を多様性に加えることだ、

多様性を素晴らしいものになるためには

多様性だけでは足りない。

 

まだこの続きはある・・・が・・・

ここまで考えても・・・

「みんなちがって、みんないい」

って「敬遠」「遠慮」「攻撃」

にもつながる・・・というかその側面もある

ってことがわかった・・・

読みながら・・・なるほどなーーー

あるなーーーそんなこと・・・

って考えながら・・・多様性は大切にしながら・・・

では一体何ができれば・・・

もっとよりよい社会になるのか??

その答えは・・・というか・・・ヒントは・・・

最期のまとめに・・・あるようです・・・