私達、「障害」児・者に関わるとき
願うことが、かなえてあげたいことが・・・【健常】と言われる子より
【ある】と言っていいことがあります。
なぜなら・・・ただでさえ世の中は【健常】に合わせられ・・・
「障害」と言われる人達は「不自由」を強いられているからです。
だから・・・
食べたい物を食べる自由、行きたい所に行く自由、言いたいことを言う自由、
「こう生きていきたい」と願って努力する自由・・・
そんなことをとても応援したくなる・・・
私たち福祉専門職と言われる仕事にも
よく・・・さまざまな自由を手助けする側面があります。
ですが、「何でもできる」という自由であるはずが・・・
「実際はできないことばかり」
「やるべきことを誰も教えてくれない」
「自己責任で選ぶことができない」
などのネガティブな部分が「障害」児・者にはよくあります。
自由の陰にひそむ・・・
このような無力感や孤独感それを日々味わっているのが現状なんです。
昔、第二次世界大戦時、ヨーロッパにおいてドイツ国民がナチズムに傾倒していくことを受けて、中世の封建制度が崩壊しても・・・なお服従や隷属を求めてしまうメカニズムがありました。
中世社会を特徴づけるものに「個人的自由の欠如」がありました。
貴族に生まれた者は貴族に・・・
職人に生まれた者は職人に・・・
農民に生まれた者は農民になるしかなかった時代・・・
日本もそうでしたよねーーー(今もあるでしょうけど・・・)
それでも、生来の役割を果たす者には・・・
社会の一員としての安定感や帰属感がもたらされていたのではないかと思います。
やがて資本主義・民主主義の社会が到来。
人びとは伝統的な束縛から解放されます。
そこに待っていたのは・・・
自由であるがゆえに個々人の意志や責任感、価値観が試される社会でした。
何でもできるはずなのに・・・何でもできる訳ではない・・・
そんな無力感や孤独感と向き合わなければならない社会でした。
このような自由に耐えられない人びとは・・・
権威主義や破壊性、機械的画一性に逃避したようです。
権威主義とは・・・組織や権力など強大なものに自己をゆだねること(自由と言いながら自分で責任を取ってやることにはならなかった)
破壊性とは、自己や他者を攻撃すること。(今もありますねーーーネットなどでも)
機械的画一性とは、社会が求める役割に自己を埋没させること。(自分を合わせちゃう)
近代史をながめれば、これらの事例は無数に存在していますね。
「人間が積極的に社会過程に参加する」
ことで、無力感や孤独感を克服できるからなのでしょう・・・
「何でもできる訳ではない」
それは・・・「障害」児・者に限らずでもあります。
でも「障害」児・者はその何倍もなんだ!!と自覚しつつ・・・
できることを少しずつ拡げていく努力。(周りの努力が必要不可欠)
これが私たちがこれから自由への手助けをする上でも・・・
決して忘れてはならないことなのだと思います。
【自由】そこには自分で自分をつくっていく・・・
選び取っていく、責任を取っていく・・・
たくさん与えることができる人になるためには・・・
きっとたくさんの人と出会い、たくさん学び、
自分事ととして考動し続ける・・・
そこが重要なんだなーーーって思ってます。
【考動】あるのみ!!
そ