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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

「置かれた場所で咲かなくていい」よ・・・

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私が自分の「障害」児と共に生活し、

そして、「障害」児・者に深くかかわり仕事をしていると

言葉だけを見て・・・んーーーってなることがよくある(笑)

本屋さんで見かけた題名だけで・・・読んだことはないのだけど・・・

たぶんかなりヒットした本だと思うんだけど・・・

「置かれた場所で咲きなさい」

それは、環境を変えることが難しいとか、そこにいるだけでも?ってことかな?

自分自身がその場所で我慢を重ねて忍耐強くなっていくことを美徳とした言葉なのだと察しました。⁽読んでないので・・・題名からの主観です⁾

でも、一般的に考えて「障害」児・者が世間の普通について行けるように頑張るなんてどこかおかしい。

けれど・・・

「障害」児・者が、歯を食いしばって頑張る姿は・・・

なぜか美しいストーリーにもなったりします。

頑張る姿がテレビ放送されて涙を流す人もたくさんいますよね。

でもそれって本人は幸福でしょうか?

みんなが出来ていることを、自分は頑張らないと出来ず・・・

歯を食いしばって周りと同じ方法で頑張れば・・・周囲はそれを見て涙を流す。

自分が一般的に普通のことを・・・頑張ってやると感動され泣かれるんです。

その気持ちってどうなんでしょうか?

例えを少し変えて言うと・・・私は犬と住んでるから・・・

ゴールデンという大型犬を飼っていて次にはチワワという小型犬を飼いました。

2匹とも同じ犬です

同じ大きさ同じ量餌をやって・・・同じように散歩に行って・・・

毎日、熱心に幸せに元気に育ってほしいと・・・どちらかの基準に合わせたら

どうなると思いますか?

「頑張れ、置かれた場所で咲きなさい」って思うでしょか?

いやいやいやいやいや・・・・・違いますよね。

同じ犬かもしれないけど・・・

餌の大きさも違えば、量も違う、散歩の量だって・・・

同じにしたらどちらかが弱ってしまう・・・

それぞれはそれぞれの生き方や特性があるはずなんです。

だからお互いの適した環境を提供しようと飼い主として頑張るはずなんです。

こんなことを考えていると・・・ふとこれが

日本の教育に当てはめてみるとーーーなんて考えてしまいます。

日本の教育は、先ほど犬の話と同じで、大型犬にもチワワにような子にも

学年が一緒なら・・・一律ですよね。

ひとつの教科書、そして指定された鉛筆とノート。

そして、そうした決まりに対応できなければ校則違反となったり、

授業についていけないとされたり・・・特別支援学級対象じゃあない?って・・・・

よって先生も、教科書が一律なことで学期内にここまでは・・・とか

業務上の様々な理由もあると思います。

でもそのことが原因で、ついていけていないわからない

そんな子どものフォローにまわる時間もないし、同じこと以外する時間がない。

何だかおかしいなあーーーって思います。

「とにかく、ついてきて」

「遅れないようにしっかり」

「ついてこれないなら、もっと努力」

ってなっちゃうっ教育って・・・残念じゃあないですか。

本当は教育(学び)って・・・

子どものわからない?や知りたい!を引き出して・・・

「知らなかったことを知っていく喜び」なのではないでしょうか?


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ついていけないこと、わからないことが恥ずかしいのではなく
子どもたちに学びを教える場で
「分かりません」
「手伝って下さい」
「教えてください」
が言えない環境そのものが恥ずかしい制度なのではないでしょか?
授業についていく事が出来ていない子、大勢の中では集中力が保てない子
学習障害で字を読む事が出来ない子 

困っているその子ども達の困っているその部分を補うことで

お互いに学ぶことが出来る・・・

だから、「障害」児・者に不便さがあるのにも関わらず・・・

同じやり方でついていけないことに

「障害」と読んでレッテルを張って分けているというようにも思ってしまいます。

本当に、その考え方はおかしい・・・

不便さや生き辛さを補うサポートがあれば・・・

チャレンジ出来る子ども達ですよ。

「不幸な人」ではなくて「不便な人」であり・・・言葉を大きくとらえ違えてる。

だから・・・

「あなたには特性に問題があるから支援学級もしくは支援学校にに行きましょう」

で済ませる問題ではないはずだと思います。

一律の授業に参加することが出来ないからといって・・・

分けて考える風習もよくないことだと思います。

その良くないことのひとつに、目に見えない「障害」のことについても

何もしらない子ども達にも悪影響だと思います。

分けて考える大人の行動が「障害」児・者達のことを

「出来ない子」「自分達とは違う」と思わせるような価値観を持たせる

きっかけにもなると思うのです。

関わり方、言い方によっては・・・

  • 出来ない子ではなく、サポートがあれば出来る子
  • 困らせる子ではなく、困っている子
  • 授業についていけないのではなく、配慮があれば取り組める子
  • 迷惑をかける子ではなく、迷惑をかけたくないと思っているにも関わらず困り感が多すぎて結果として迷惑に思われてしまう子

本当は、だれもやりたいんですよ・・・

それなのに、なんの配慮も施さずに・・・

何度も同じ失敗を重ねさせ、自信を失わさせ、「違う」を植えつける・・・

その子どもにあった配慮を考え、その子どもがわかる伝え方を見つけ

その行動を周りに伝えられるように動いてほしい。

「障害」児・者の問題行為に疲れてしまっている支援者だって・・・

彼らが落ち着いて過ごせる状態になればお互いが過ごしやすいのではないかな?

なんで配慮がこんなにも足りないんだろう?と日々考えています。

世の中はまだまだ「障害」に対してネガティブなイメージが

社会全体に強い。

社会の中での誰かの困りごとは「社会問題」として・・・

制度をかえ体制をかえと変わっていけるチャンスですが、

今の日本では「障害」ということも含め、様々な問題に蓋をするような

そんな文化がある意味出来上がってしまってるんです。

日本人は、見たくないものにすぐ蓋をします。

企業に超過労働でうつ病になる人が出たとしても

「そんな事実はありません」

として終えることもある・・・何なら隠蔽しちゃう・・・

影響力の強い芸能人が、自ら命を絶っても

「プライバシー」や「働き方問題」「産後問題」について

大きく問題視されるわけではなく・・・

制度を変えていこうとする動きすらもない。

多くは・・・ワイドショーのネタとして話されているのを見聞きしただけです。

「苦しんでいるという事実」

は、そこにはあってはならないものとされてることもきっと多いんですよね。

 

よって・・・思うんですよ。

適応できないのに適応しようとする努力なんてしなくていい。

置かれた場所で咲くのではなく、綺麗に自分が咲き誇れる場所にいっていい。

その、移動する中で転ぶ、落ち込むそんなこともあるでしょう。

でも、辛いことに耐えて我慢し、病気になるよりはるかにいいし、

周囲に合せる努力ばかりでは・・・生き辛くて仕方がない・・・

それは当たり前。

だから・・・「置かれた場所で咲きなさい」ではなく

生きていきたい場所に自由にいっていい・・・そう思います。