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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

「障害」と炭酸飲料

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うちの子達は炭酸が小さいうちから苦手でした・・・

私もあんまり得意ではなかったけど・・・

お子さんの炭酸飲料って何歳から飲ませていますか?

調べて見ると・・・

特に何歳から飲ませた方が良いとかはありませんでしたが

炭酸飲料は、ガスがたまるのでお腹がいっぱいになった気がしてしまい

肝心なごはんが食べられなくなる恐れがあるので

成長期にはあまり飲ませない方が良いとのことです。

うちは最初の子が「障害」があり体が極端に小さいことから

少量で高カロリーを目指していたので・・・

もしかしたら意識的に炭酸を飲ませることを避けていたのかもしれません。

 

でもみなさんは、なんだかんだ結構早い段階で

飲ませていることが多いようですね?

今でも「障害」者の娘は・・炭酸の飲み物が飲めません。

かろうじてお酒で微炭酸くらいはいけるようにはなりました。

結構どうでもいい事かもしれませんが・・・

これも「障害」と関係があるのかな思ったりしたこともありましたが・・・

うちは他の子も苦手なので・・・あまり関係ないかな?

私は大人になって・・・ちょっと炭酸飲めるようになりましたが・・・

私も得意ではなかったんですよーーー

「障害」者の娘は

なんでも好奇心がある方なのですが・・・

食べず嫌い?怖さが上回るのです。

苦手な事にチャレンジすることはもちろん、克服することも時間がかかり

難しいのが特徴ですねーー

そういえば昔を思い出したのですが、

娘が炭酸を飲めないことを知らないおばあちゃんが・・・

あろうことかコップに炭酸ジュースを注いで・・・

それを娘が飲んでしまったことがありました。

その瞬間、すごい顔をして「おえーーー」って言っていた

記憶があります。(笑)

口にちょっと入れた瞬間のあっという間の終了だった気がします(笑)

口の中でシュワシュワする感覚・・・

喉を炭酸が通る感覚に・・・きっとビックリしたんだと思います。

体に良い大切な飲み物ってことでもないし・・・

別に飲めなくてもいいんですけどね。

けれど・・・その触感や刺激が好きなお子さんも多いですね・・・
がばがばごくごく飲んじゃう子もいる・・・

 

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「障害」だからって一概には言えないですよね・・・

それぞれの特性・・・楽しんで子育てしていきたいですねーーー

 

なんとなく

「お母さん最近ジンジャーエールときどき飲むよねーーー」

なんて言われて・・・なんとなく昔を思い出し・・・

今日はちょっとどーーーでもいいような

内容のブログを書いてみました・・・たまには・・・いいよね(笑)

「障害」~彼女たちなりの思い~

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うちの娘(現在31歳が)

小学生のころ・・・

まさか娘が・・・

學校の宿題や勉強に対して、こんなに使命感があるなんて・・・

面白いなーーって思ったことがありました。

「ご飯食べる前に宿題やる」「明日の宿題やる」

「お母さんが帰るまでに宿題すると喜ぶ」

セリフはなんとなく断片的にしか覚えていませんが、

宿題を「やらなきゃ」という使命感を

娘から感じられる言葉を聴いたことがありました。

少し前の娘からは想像もできなかった姿だったなーーー。

そんな姿を見て少し頼もしくなり微笑ましくも感じました。

宿題をめんどくさがってる感じや、嫌がってる感じはありません。

全く答えなんてあっていないし・・・

なんとなく埋めているだけなんです。(笑)

でも娘が頑張っている姿を見ると涙が出ました。

娘が幼児のとき、保育所に通ているとき・・・

この娘の姿を想像できていたかな?なんて・・・

今思えば、保育園もなんだかんだ娘は自分なりに周りを見て

加配の先生と共に順応し成長してきました。

小学校でも・・・

「できない」そんな思いを抱えていたのか?いないのか?

娘は周りと共に様々なことにチャレンジし

トラブルを何度も繰り返しながら・・・

何度もその状況をそのときそのときでクリアしてきました。

今振り返ると・・・そのときは必死で・・・大変で・・・

日々目まぐるしかった・・・それほど日々・・・

様々なことが起こっていたから・・・

謝る、お礼を言う、謝罪を受ける、謝る、謝る、お礼を言う・・・

そんな感じの毎日でした。

そのたびに学校の先生と

どうしたものか?」「どうしたらいいか?」「どう動こうか?」

そんな密なやり取り・・・何度繰り返してきただろう?

「なんでそう思うんですか?」「どうやったら理解されるだろう?」

そんなやり取り・・・

「どうやったらできるかな?」「この子の将来に何が今大切だろう?」

ほかの子達とは違うこの子ならではの成長・・・

そこを一緒にたくさん考えていただいた。

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3~4年生のギャングエイジと呼ばれる時期・・・

ここでも大きく成長したなーーー

親がやったわけではない・・・

全て「学校」という環境と「友達」の存在・・・

言わないまでも

「同じようにやりたい」彼女からはその意欲をいつも感じていた。

体力的に難しい・・・そんなことも彼女は力の限りやっていた、

(疲れて他の時間に寝ていたけど)

算数ドリルみんなと一緒・・・だけど・・・数字をてきとーーーに羅列・・・
はい・・・ここで提案・・・

「電卓覚えさせて使わせてください」(昔にしては斬新でしょ)

できないことよりできる手段があったらそれを使わせて・・・って・・・

「でもお願い・・・この子だけいいなーーーずるいなーーー」

にならないように先生説明してくださいね・・・ってお願いしたっけ・・・

今日・・・ふとまたこれを思い出した・・・のは
ある子の宿題を見てて・・・

「今ってドリル専用のノートがある」(゚д゚)!

えーーー(゚д゚)!・・・ってことがあったから・・・

こりゃあ考える力弱るんじゃない?

みーーんな一緒のノート??不思議だねーーー。

時代って??これでいいのか??そう思いながら・・・

昔を思い出した私でした・・・

「障害」支援者として・・・

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「障害」児・者に対して、何か支援をするときに、
できないことや
困っていることなどに支援をする訳ですが、
これだけできれば、支援する側は誰でもよいのか?

というと・・・そう言うことでもありません。

よくこの支援者は、良い支援者、
この支援者は、あんまりよくないよねーーという
評価につながることがありますよね?

これを、支援者側から見ると
信頼関係が構築できていないからだと
思われるかもしれませんが、
「障害」児・者からは、
信頼はもちろんですが、
「承認力」というか?付き合い方の良さの方が
大事なのだと思うのです。

もちろん、
「障害」があるとかないとかではなく、
自分にとって心地よいつき合い方

「いつも見てくれている」という実感を
感じているかどうかだと思うのです。

たとえば、全く同じ内容の支援をしていても、
「障害」児・者から見て、スタッフ側に差がつくのは、
そこに、笑顔があるとか、
言葉のかけ方だとか、

支援レベルや高い基準をクリアした支援だけではない、
プラスした何かがあるかどうかです。

信頼関係がまだなかったとしても、
一緒にいて心地よい関係というのは、
彼らにも肌感覚でわかります。

また、支援自体は充分でも、
それに付随した部分の配慮が
できていなかったらどうでしょうか?

支援者でありながら

自分の感情をおもむろに出してしまう・・・

自分の体調のコントロールができないまま支援に向かい

利用者から心配されたり・・・怖がられたり・・・

そんなことも利用者から聞いたりします。

自分が、支援される側だったら、
どう思いますか?

それを問いたいです。

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最低限・・・

利用者の前に立つとき自分の顔はつくります。

口角を上げて元気に明るく

自分の最大限のテンションで向かい合います。

笑顔はつくります。

「えーーーつくるの?」って言われそうですが・・・

心底笑うことも大切で当たり前ですが・・・

相手のためを思いながら、

つくる笑顔は最高のおもてなしだと私は思います。

それは・・・自分のモチベーションを上げることにもなるからです。

いくら支援がきちんとされていても、
それだけではない、
相手に対する心地よさや気づかいの部分まで
できてくれば、
あなたのことを、
良い支援者だと認められる場面は、
格段と増えていくのではないでしょうか?

そこから信頼にもつながります。

自分がされたらうれしいことは何ですか?
自分がされたら嫌なことは何ですか?

あなたが良い支援者となれるかどうか。
支援をする際には考えてみるといいかもしれません。

日々自分をアップグレード・・・更新していきましょう。

「障害」~コミュニケーションは苦手?~

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「障害」児・者の方もそうですが・・・
そこに携わる方々も

それぞれの関係の取り方コミュニケーションが苦手!!

とおっしゃる方がよくいらっしゃいます。

コミュニケーションは、
人と接して、相手の話したいことが、
まず自分がわからないとなりたちません。

相手の言葉を無視して、
自分の言いたいことだけ
言い放っているのであれば、
コミュニケーションにはなりません。

重要なのは・・・まずは「聴く」こと

表面的な言葉だけでなく

その方の頭の中言葉を想像する、関心に関心を持つ

ということも大切です。

「障害」児・者の方々ですと、
言葉が出るまで待つことも非常に大事な部分です。
言葉が流暢に出てこない、

頭の中を整理していることもありますよね・・・

もちろん、社会経験が少ないことや、語彙を持たないこと
考える部分が狭いことなどもあったり、
もともと、
言葉を持たない方もいらっしゃいますから、
支援者としては、困難を要する部分かもしれません。

人って、自分がわからないことや苦手なことは
なんとなく後回しにしたくなりませんか?

(私がそうなので・・・(笑))

だから、相手の考えを出させる方法がわからないと、
時間を取って関わることしなくなってしまい、
どうも、スタッフ側は、
自分の考えを押しつけることに
なりやすくなる傾向にあるようです。

「障害」児・者が、自ら考え、
自分なりの考えをまとめ、
表現する(言葉にする)までには時間がかかります。

その時間を、ないがしろにしたり、
はっしょったり・・・

考えるための支援を怠ったりすると、
余計に、コミュニケーションが成り立たなくなります。

相手の考えていることを、引き出すのはなぜか?

なんのためなのか?

その大前提で、それぞれに関わる方が工夫をし、
相手の考えを引き出せるようにしたいものです。

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そう。

あなたが、吐き出すことができるよう支援をするのです。

相手の方が、考えていることをしっかり
表現すること(言葉にすること)
に対しての支援が必要なのです。

ですから、あなた自身が、支援する側の人間が
工夫をする、しなければならないということです。

どうやったら自分の気持ちを吐き出しやすくなるかな?
という視点を持って、利用者さんや目の前にいる

心を通わせたい方と接してみてください。

「コミュニケーションが苦手」

と言っている根本には・・・

人の話を「聴く力」が問われていることも多くあります。

まずはしっかり

「うんうん」と人の話をしっかり聞けている自分なのか?

人の話をさえぎったり・・・

聞き終わる前に持論を展開していないか?

今一度自分を見直すことも大切なことかもしれませんね・・・

「障害」児・者に接したことありますか?

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「障害」児・者を直接的に知らなくても、
きっと、街の中やご近所、
またはご自身が行っていた学校、お子さんが通っている学校などで、
1度くらいは見かけたり会ったことがあるかと思います。

もしかしたら間違えている方もいるかもしれませんが
彼ら自身が社会の形成に決して
現す文字のように「害」があるわけではありません。

社会は様々な人で形成されていますが、
彼らもまた社会を形成をしている1人です。

法律が変わらないので・・・障害者と書いていますが、
その人自身が、生きていくときに、
「障害」を感じ、生活しにくいことが、
ある人たちの総省が今はそうなっています。

他の人にはできることも、
彼らには、わざとではなく難しくて

できないことが多くあります。
できないことがあること自体は、実は「障害」ではないのです。

「障害」は、彼ら自身ではなく、
社会の中にあったり、人の心の中にあったりします。

「障害」児・者にとって
生まれた時からや途中でわかることも含め
「考えること」「予測すること」

などが難しいことがある方が多い。
健常者と言われる人がわかっていることも
理解が難しかったり、
よりていねいな説明が必要な人もいます。

自分が、まだ幼くて、
何も知らない状態のときは、
自分の状態を
何も気にしてない、わからないかもしれません。

それは、私たちもそうです。
生れたときには、ありのままの自分、

自分はこうだとしか思わないと思います。


生まれたときから
お父さんがいない家族であれば、
そういう家族で何とも思わないだろうし
社会に出て、
他の友達にお父さんがいることや
自分にお父さんがいないことがわかるようになって
何かが起きた際、
お父さんという人がうちには
最初からいなかったということに
気づき、何かを感じるとるようになるというようなことが
ありますよね。

それでも、不具合がなければ、
お父さんがいないことは
気にもならないと思いますし、
そこで不都合があれば、
きっと生きづらさとなるのでしょう。

自分と人との違いは、
人と関わることで気づき、
人との関わりのなかで、不具合や生きづらさも生まれます。
それが「障害」なのです。

ですから、例えば、
人と人は違うものだと思って、
様々な説明などを
「障害」があるその子に合わせている
家族に「障害」児が生まれれば、
その子は、家族の中では「障害」が気にならないかも
しれません。

だれかが手伝ってくれるなどで
困ったことがなければ、
自分が「障害」者と
認識していない人もたくさんいます。

(うちは中学校途中で気づきました(笑))

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社会のみなさんが、

彼らを「障害」児・者だと
認識しているにも関わらず、
とうの本人たちは、そう思っている人と、
そう思っていない人がいるのです。

かわいそうといわれることもありますが、
彼らがそういう体や特性で生まれたことは
かわいそうでもないし、不幸でもありません。

でも、社会の人たちが、
彼らに対して、自分と違うと認識し、
攻撃したり、嫌がったり、避けたり
役立たずといったりします。

そういうふうに考える人が、
周りに多ければ多いほど、
彼らは、不幸になったりもしてしまうのです。

それこそが、
彼らを「障害」児・者にしていると考えています。

そんなことないといわれるかもしれませんが
それは、誰のこころにも潜んでいて、
自分でも気づいていない、

そんなこともあるのです。
それが、「障害」になるのです。

彼らは、何の迷惑になっているのでしょうか?

生まれ持った体で生きていて、
考えることや予測することが難しいことがあったとしても、
不要な人はいないのです。

自分の尺度、当たり前で
人の良しあしを決めている人が多いのではないでしょうか?

役立つとか?役立たないとか・・・
で人を分けようとするのは、意味のないことです。

役立たない人間ってなんでしょうか?
そんな人はいない。

人間は、世の中に生まれただけで
社会の形成を担うのです。
「障害」があってもなくてもです。

自分ができることをしていくことで
社会は成り立ちます。
「障害」児・者も、何もできない訳でもなく、
できることをしています。

生きているだけで誰かのためになっています。

他人の人生に、生きる意味を問うのは、
やめてください。

あなたも他人から
生きる意味を問われたいでしょうか?

生きることで意味あること。
それは、人生の最後の最後まで社会形成上も意味あることです。

「障害」児・者は、どんな人でも、
だれかの支援を受けることで、
彼らは能力は、今以上に発揮できます。

それは・・・みんなお互い様。

できないことがある人は
「障害」児・者だけでしょうか?

私たちでも、計算ができないときは、
電卓を使いますよね?

計算ができないーーという
「障害」が発生する前に電卓に助けてもらいます。

これも支援の一つ。

彼らはできないことが、
人より多いかもしれませんが、
彼らと関わる前に気に留めていただきたいのです。

そこから私達自身が多くの気づきを得る事もできますし、
あなたが彼らの「障害」を減らすきっかけにもなれるのです。

ちょっと気づかうだけで、彼らは断然生きやすくなります。

生きやすくなれば彼らの「障害」は
なくなるかもしれません。

全ての人たちは、できることをして、
社会形成に役立っています。
今生まれる命でさえもです。
知る機会を持ってみませんか?
一度会って接していただければ、
「「障害」ってなんだろう?」が
わかる手立てになると思います。

ちょっと勇気がいるかもしれません、

(よく怖いと聴くこともあるので)
でもちょっと会ってみてください、
そんな体験、考動をお待ちしています。

「障害」~人のとらえ方[かわいそう~]

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人の発想って面白い
リンゴを見せて・・・
「これはリンゴ」と思う人

「赤い丸い」と思う人
「トマトかな?」と思う人

「いや・・・梨だよ」と思う人

どこからその発想が生まれてくるのか?
と思いがちですが・・・


「障害」に関わることも捉え方はそれぞれです。


中には・・・かわいそうという捉え方から、
いろいろな考えや行動を起こす人がいます。

かわいそうだから、
何とかしたいと思う人。

かわいそうだから、
生きていない方が
良いのではないかと思う人。

かわいそうだけど、
自分には関係ないと思う人。

かわいそうだけど、
関わり方がわからないから、
関わらない人。

かわいそうだから、
仕方ないと何でも許してしまう人。

いろいろな方向に分かれていきますよね。

解釈は同じなのに、
「考え方」で行動が変わりますよね。

それは私たちのそれぞれの表現だからです。

想いは一緒だとしても、
行動は、それぞれが違うのです。

そして、
まず・・・この「かわいそう」という解釈だからこそ、
間違った方向に行ってしまうのではないでしょうか?

それは、
「かわいそう」だから
世の中からいなくなった方がいいと思っている人と、
「かわいそう」だから、
何でもしてあげようと思う人と、
私の中ではどちらも???です。

それはなぜか?

まず最初に「かわいそう」と思っているところが
同じであり

そこが、間違いだからです。

このことは、
チョット語ったくらいでは伝えきれない
大きな課題です。

ですから、ここでは問題提起鹿できないのですが・・・

 

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2016年、相模原の事件があって、

私は「彼らがいていい理由」ではなく、
「彼らがいなければならない理由」を考えています。

きちんとした文章にはならないにしても、
少しずつではありますが、
整理しています。

あの事件では、まさに
「かわいそう」だから殺したと
いわんばかりの発言もありました。

また、この「かわいそう」で、親が子を殺す時にもあります。

実際に福岡でもありました。

「障害」児・者を
なぜ、「かわいそう」とひとくくりに
決めつけるのだろうか?と思います

私から見たら、
彼らは「かわいそう」でもないし、
毎日楽しく過ごしている人の方が多いなと感じます。

なのに、決めつける人が多いのはなぜか?

それは、彼らを知らないからです。

そして、自分と比べるからです。
自分と比べて「かわいそう」と思うのでしょうね。

「かわいそう」という見方で、本当の彼らを知ろうとせず、
「かわいそう」だからという理由で
それぞれに行動を起こしているのです。

では、そういう人たちに、
最初から「かわいそう」じゃないよと言っても
理解しにくい訳です。

だって知らないからです。

「かわいそう」ではなく、
世の中に必要ない人等いないってことを、
彼らを知らない人にも
知っていただきたいと思っています。

正当な理由を言ったり、
法律をかざしたりしても駄目だと思います。

彼らがいなければならない理由。

それは、
「かわいそうではない」という
証明でもあると思います。

彼らと接するのは、
誰でもできるはずなのです。

だって小中学校では支援学級は急増なのですから

(ここも問題ですが・・・)

誰かが誰かを思いやる。
ちょっと相手の事を考える。

その時、困っているようであれば、お手伝いする。

それは、どんな人にとっても
お互いさまの世界で当たり前だと思うのですが・・・

(人の当たり前と自分の当たり前は

絶望的に違いますからねーーー)

「障害」があるからと、
特別なことではないと言うことです。

彼らがおもしろいことをしていたら、
一緒に笑えばいい。

彼らが、何も困っていないのだったら、
別に気にしなくていいのです。

目に見えている「障害」だからこそ、
気になって、
何か特別なことをしようとするから、
自分と比べて「かわいそう」と
思ってしまうのかもしれません。

もし、あなたが「障害」児・者の支援者で、
そばに「かわいそう」と発言したり思う人がいたとしたら、
「どこがかわいそうなの?」
と聞いてみてください。

そこからまず会話を始めてみてください。
その人の思っていることが、
現実と違うようでしたら、
「本当は・・・」と
話してみてください。

そこから、変わる何かがあると思います。

あなたから、身近な一人の人を
変えていくことをしませんか?
「かわいそうって思っていたのは、
自分の考え方が・・・」
と気づいていただける一歩を

与える側になれるそんな自分をつくっていきませんか?

ダウン症の人のホントの特性って?

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「障害」児・者に関わっていく中で
よくダウン症の方に関わることもあります。
最近も事業所の方で「問題行動」って悩んでいる
事業所から依頼があり支援に入っています。

ダウン症の人は、
人づきあいが苦手なのかというと、
表面ではそうは思えないような、
明るい方が多くいらっしゃいます。

いつも笑顔で、
ご自身から
相手の人を楽しませる
人も多いですよね?

でも・・・年齢を重ねるごとに、
ダウン症の人たちは、
うつ的になることもあり、
家から出ることができなくなったり、
ふっくらしていた人が
急激に痩せたりすることもあります。
このギャップを
色々な研究をしている方から
さまざまな
見解が出てき始めているようです。

そんな中・・事業所で
悩み多き支援者のみなさんと
お話しさせていただいたときに、
うつ的になる人には、
人間関係の辛さを訴えられています。

人づきあいがうまく行かず、
もともと明るかった人が、
そうではなくなったりしています。

人からどう思われるかな?と思ってしまったり、
もっともっと、人の期待に応えなければならないと思ったり、
今までできていたことを維持しようとしたり、
にこやかにしていないとだめだと思ったり、
人前では自分自身を出せなかったり。

私自身が、
いろいろな人との関わりの中で、
見えてきたのは、
自分自身を奮い立たせていたり、
人に良く思われる自分を
演じているような人が、
ある日突然、
緊張の糸が切れたかのように、
心が沈んでいく感じもあります。

真面目だったり、
生活そのものがきちっとしている人でも、
そのことが自分の本意ではなく、
努力に努力を重ねているような人だと、
そのような傾向があるように感じます。

さて、ダウン症の人はどうかというと、
人を楽しませることをする人が多く、
彼らは、人と接するのが好きと
答える傾向が強いと思いますが、
その答えこそが、人に合わせているとしたら、
どうでしょうか?

ある日を境に、
家にこもるダウン症の人たちは、
人づきあいの中で、相手が喜ぶように
演じていたのではないか?とも思えるのです。

笑えばかわいらしい人も多く、
まわりの要求も高くなり、
人の期待の言葉に、
相手が喜ぶようなパフォーマンスをする人も
少なくないのではないでしょうか?

そして、心臓疾患など、
身体の調子の悪さも言葉で表現できない場合もあります。

そんな時も周りに合わせている人も
いるのではないでしょうか?

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本人のパフォーマンス性のある行動と

まわりの期待と、
そんな人間関係のはざまにいて、
ふと、ご自身で、その状況に気づいた時に、
「あれ?」って・・・

うつ的になったり、
自傷行為が始まったり、
事業所を休み始めたり、
部屋からでられなくなったり、
お風呂に入らないなどずぼらになったり
年齢のせいにしたり、
ダウン症だから青年期はこうなるのかな?

年齢は加速するって聞くし・・・

ある一定の年齢から+10~+30にもなるとも聞く・・・

からだと思ったり、
ある意味、勝手に「そういうことなのだ」と、
思っていたのかもしれません。

ホントは・・・もしかして、
もともと人づきあいが苦手だったのかも?
もちろん、楽しんでいるのは、楽しむとして、
覆ったより疲れることがあるかもしれない
と、考えると、
合点がいく人もいるのです。

ダウン症の人でなくても、
人前では、はじけるような姿を見せて、
人がいない所では、
ひとり静かにして調整している人もいます。

ダウン症の人は、
ご自身の心地よさや嫌なことを
言葉に言い表せない可能性もあります。

そんな表情を垣間見せる子も多くいます。

私は気持ちが聞き取れる支援者でありたいのです。

ダウン症の人のイメージ先行は、
その人にとっては、もしかしたら負担かもしれないのです。

彼らに、もし負担になっているようであれば、
人前で楽しげにしているだけではない、
本来の自分の心地よい過ごし方をしてほしいですね。

そこを理解できれば、大人になって、
急激なマイナス的な変化をすることが
減るかもしれませんね・・・
もしかいたらストレスの減少によって、
さまざまなことへの急激な変化を
緩やかにもできるのかもしれません。
彼らダウン症の人たちが
自分自身のことを表現する困難性を
私達支援者が、知らないかもしれないそう感じながら

これからの支援を
考えるきっかけになっていったらいいなーーー

と思います。

常に

「彼らのことは私はわかっていない、

理解できていない」

そう思いながら・・・

これからもしっかりと見つめる目。

観察力、洞察力を養っていきたいと思っています。

「障害」モノづくりの価格の在り方

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自主製品を作っている事業所は、
商品単価をどうやって決めているでしょうか?

まず考えている部分。結構低価格な場合・・

・高いと売れない
・材料費がタダだから、その分を差し引いている
・ほとんどが、スタッフやボランティアで作っているので、
 その分を差し引けるかな?

そして、知らない部分。高単価な場合

・利用者の人がお金を欲しいと思っていること
・お客さんは、高価なもの程、商品を大事にしてくれること
・価値が高いものを提供すること
・安い商品は流通していかないこと(使い捨てられる)

いかがでしょうか?

単価設定は、事業所でつくった場合
まず、誰がつくったからという視点で
考えるべきではないでしょうし
材料の出どころで考えることでもありません。

なのに、どうしてもそちらに意識が行き

主流に値段を考えるので、
どうしても安くなってしまうのです。

家族経営している所は、
子どもが手伝っているから、
妻が手伝っているからと、
その値段を下げたりはしないですよね?
そうではなく、一般市場の価格に合わるでしょう。

材料がどんな方法で手に入ろうと、
それが適正な材料であれば、

通常価格でよいと思いませんか?

例えば飲食店が、
近所の農家さんから大量に野菜をもらったからといっても
通常価格で出しますよね?

また、ボランティアが協力しているからと、
値段を下げるのではなく

稼いで人を雇ってもよいはずです。
作業自体が、
いつまでも、ボランティアありきではどうでしょうか?

なぜ利用者さんは作業をして
なぜそれを売っているのでしょうか?
利用者の人たちが、安い工賃でも、
それで仕方ないと思い込んでいるから、

改善されないのかもしれません。

これはスタッフの勘違いです。
「言わないからいい」「これくらいで仕方ない」

ではないのです。
お金の価値がよくわからない人だからなどと決めつけ、
だから、価格が安くていいといいものではありません。

では・・・

物を大事するのは、どういうものでしょうか?
ご自身ではいかがですか?

持っているものの中で、
同じような品物で2つのものから1つを選ぶとしたら、
値段が高い方は捨てたくはないですね。

もし、おまけなど無料でもらったものから、
淘汰したりしませんか?

もちろん、安くても、
商品価値があるものであれば、
そちらを選びますが・・・
あなたの事業所の商品は、他と比べたときに、
選び続けられる価値を持っているでしょうか?

このような、様々な視点をもちあわせるかが重要です。

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今まで、
考えていたようで考えていないかもしれません。

自分だったらどうかなと考えることも
大切です。

さて、適正価格に向けて、あなたはどういう視点を持ち、
変更していけるでしょうか?

値段を高くして売っている事業所もあるのですから、
あなたの価値観によるのです。

今やインターネット等でもいろいろな事業所のものが
検索できますし、手作り作家さんなどのサイトも
参考になるのではないでしょうか?

売り上げをたくさん出せば、次の商品の開発もできます。

個人事業は安ければよいのではない。
もっと価格や価値をあげるには何をするべきか?

より良い商品をつくることも大事です。
しかし、まずは・・・

あなたの在り方や考え方を
変化させていくことから

始めてみることが大切かもしれません・・・

「障害」彼らの才能をプロデュースすること

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「障害」がある人のものづくり。
あなたが知っているその人の
得意なこと、好きなことを知っていますか?

こどものころから親が気づき、
その道を伸ばそうと思いやっていらっしゃる方も少なくありません。
「アート」の世界で、道が開ける場合もあるし、

ハンドメイドの世界で作家として生きていくこともあるかもしれないし

そこから商売として、お金を稼ぐことにもつながるかもしれません。

これは、「障害」があるなしに関わらずだとは思うのですが、
いわゆる健常と言われる人たちは・・・

自分が好きなことをしていたり、
それをやりたいと主張できると思いますが、
「障害」があるお子さんは、
自己主張ができなかったり、
楽しいのに表現上、楽しそうに見えてこなかったり

することもあると思います。

また、毎日、集中をしすぎてしまい、
1日で1作品を作ってしまったり、
昼夜逆転してまで、物作りに没頭してしまう事もあり、
親から止められたりもする可能性だってあります。

また、事業所などに通っていると、
本当はものづくりの方が好きだししたいことなのに、
事業所に行くことが主となり、下請け作業のような仕事で疲れて、
時間も足りず、ものづくりに集中できないこともあるかもしれません。

彼らの力を
彼らが自由に使って、
作品を作ったり、やりたいことに
没頭できたり、
職人・アーティストたちがしているようなことを
できる可能性には周囲の理解が必要となります。

お金もかかるからと、
充分にさせてもらえないのも、とても残念なことです。

学校も事業所も、
個人の得意な分野は、「趣味」で収まってしまいがちで、
どなたかがプロデュースしない限り、
彼らの作品は、世の中では人の目には触れないことにもなります。

ものをつくることが好きな子であれば、
ぜひ、伸ばしてほしいと思うのです。

大人になったときに、どんな作品になったり、
そこからどんな商品になるかもわかりませんが、
アート・文化としてとらえるなら、
あなたから見たらがらくたでも落書きだとしても、
これが何になるかな?と考えて、

わくわくしてみませんか?

さて、「障害」者で、
「障害」者雇用企業などで働いていない人だと、
ほとんどの人が、
「障害」事業所に行くような
仕組みになっていますが、
その人の持つ能力を最大限に活かしたり、
その人のやりたいことをやるというスタンスを
活かすことをお考えになりませんか?

その人のしていることを
趣味の域で終わらせることはありません。
もしかしたら職人の域かもしれないのです。

アーティストとして、
その人の持つ作品が商品となるには、プロデュース力です。

もちろんそういうことをしている事業所に行く
という考え方もありますが、
事業所に行く日数を減らして作品作りをしても良いのです。

事業所ありきでは、考えないことです。

その人の持つ「できること」や「やりたいこと」を
できる方が、その人らしい事で

素晴らしい人生だと思いませんか?
できれば好きなことが仕事になることは
良いことだと思いませんか?

ですから、私たちは支援の一環として、
プロデュースをする側に回りましょう。

その際、支援者側の力に不足を感じるのであれば、
それは、外部の専門家を使うことをお勧めしますし、
その手のことをしている団体や事業所に頼みましょう。

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みんなと一緒と同じ道を行く必要はないのです。

趣味ではなく職業として考える、
ものづくりアーティストという視点、
そして、あなたがそのプロデュース側に回るという視点を
持つこともまた、
その人の作業支援の一環として考えましょう。

私達も福祉の担い手として

様々なものづくりを日々プロデュースしています。

どうやっていくか?何ができるか?

考えることは「ワクワク」の連続です。

「障害」受容~なんで私?からの脱却~

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口唇口蓋裂で産れたわが子の女の子の確率は男の子の出生より
割合が低い・・・

 

たしかに、病院に通っているときも男の子と比べてどこも少ない気がしていた。

というか実際そう。なんだよね・・・

 

なぜ、低確率で生まれてくる「口唇口蓋裂の女の子」が私の子となったのか?

考え始めると迷宮入りしそうになるから

考えないようにした。

でも子どもが小さなときは

どうしても考えてしまうときもあったなーーー。

 

そのほかは・・・元気だし、可愛いし生命上の問題はない。

周りからもよく

「子どもは、親をえらんで生まれてくるのよ」なんて言われ

どこか・・・「たしかに」と思ったりして・・・

 でも、心から手放しに

「そうか!私をえらんでくれたのね!ありがとう。」

なんて思えないものでしたよ。実際・・・

「なぜ私の所に、あなたは生まれてきたの?」「なんの報い?」

と思いながら過ごしていました。

 

「おそらく、女の子」と、6か月目の妊婦健診のときに言われた。

 お腹の赤ちゃんが元気に生まれてきてくれれば、

男でも女でもどちらでもいいんですよ・・・

が・・・しかしうちは初孫

夫の方は「女の子」の孫はいない・・・と言われると、

どうしても未来を想像しちゃいます。

 多くの楽しい行事をを思い描きました。

 出産前に肌着や服をえらんでいるときも、女の子ならではの柄や飾りに、

やっぱり女の子育児への思いを馳せて

 「いつか、この子が色々お話してくれるのが楽しみだなあ」と

数年先のことを考えるとワクワクしてた。

が・・・

バラ色だった毎日から、出生して数時間後

診断名を聴かされることによって奈落の底につき落とされた。

最高の毎日から突然全てが音を立てて崩れていくようなそんな

一瞬を体験する。

娘に笑いかけることもできない、取り乱す母。

奈落の底に落ちている私の目の前で、娘は生きる希望に手を伸ばす・・

そして私には、止まることのできない

当たり前の日常と初めて尽くしの育児が待っています。

これが、私が感じた診断の瞬間。

育児というのは、止まることができない。

毎日毎日、呼吸をするように続いて行きます。

娘のしょうがい受容ができようができまいが

受け入れたくもないような現実を抱えたままであっても

「呼吸をするように育児」は続いていくのです。

昨日まで思い描いていた将来が、

今日からは全く思い描けない。

昨日と今日とで私は何も変わらないのに・・・

思い描いた育児と自分のマインドが変ってしまった。

私とは無縁だと思っていた「障害」児育児のマインドを

自分は得なければいけない・・・

「普通の人生」それを否定されたようなそんな感覚。

娘の笑顔は可愛いのだけれど・・・

娘を取り巻く景色がどこか色あせてモノクロに見える気がした。

数日前まではワクワク感じていたことまでもどこか最悪で・・・

「早く、受け入れる自分になりたい」と思う気持ちと「夢で嘘であってほしい」

そんな風によく思ったものでした。

 娘の「障害」が発覚してからは、

身内という身内が「「障害」原因」探しを始めます。

  • 妊婦のときに、歯科医にかかったのがよくないんじゃないのか
  • ちゃんと早期にわからなかったのか?
  • どちらかの親戚にいるんじゃあないの?
  • 「障害」の遺伝子をもっているんじゃない?   などなど・・・

 

わたしは、私は産んだばかりだよ・・・

理由なんて見つかって・・・どうなの?

それにもし

「原因が私だったらどうしよう」とも思い怯えてもいました。

 私の妊娠中の過ごし方が悪かったとか、私の母体環境とか・・・

仮にそうだとしたなら・・・

今度こそ本当に奈落の底に落ちて、精神も崩壊するかもしれない・・・

そう思ってもいました。

「全く考えなかったのか?」と言えば嘘になるのだけれど・・・

理由を探すよりも母親として大切なものがあると思っていたし、

もう戻ることのできない過去を追求するよりも、

早く「親」になりたかった。

簡単に言えば、一般的な育児と比べると母子ともに泣くことが多かった。

子どもと一緒に号泣した日もあったし、

布団にもぐって口を抑えて声を殺して泣いた日もあった。

「親子」をイメージする微笑ましいとは到底思えないようなシーンも・・・

多く体験してきました。

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 でもさすがに・・・経験の中から「受け入れた」という時期を経験しました。

7か月くらいだったかなーーーさすがに慣れないわけにはいられない。

 誰よりも娘が一生懸命今の自分の状況を受け止めようと頑張ってる。

毎日とても苦しそう、辛そう・・・

それは毎日一番近くで見ていてよくわかる。

 彼女は彼女で、病院の力をかりたり、周囲の支援に助けられたり、

失敗や成功を繰り返して自分なりに生き方を模索し、発達・成長を遂げてきた。

 今の私はこの子の「障害」のことを、「可哀そう」ではなく「生き方のひとつ」

だということを理解しているからこそ哀れに思ったりすることもありません。

ただ、自分がなりたいとも思いません。

だって大変。生きていくのがとても大変で過酷な道だと思うから。

 やっぱり周囲のサポートと理解が最重要なんですよね。

 だから私は「障害」児・者の発信を辞めない。

私が他界したときのことを考えて、子どもたちの頼り先(支援先)も、

いっぱい作っています。

「きっと、私はそのために生まれてきたんだ」

これがコアであり使命なんだとも感じていています。

 

ずーーーっと本当に関わっていきたいなと思っています。

「一緒に居て落ち着く人」となりたい。そんな風な人を

どんどん発掘していきたいと思っています。

夢は寝てみるものではなく・・・叶えるもの・・・

これからも歩み続けていきます。