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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

ママが最低限することは・・・

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私は母の教えしか知らなかったので・・・

最初の子育てまで・・・

家事と育児は全部任されていて

「これが私の責任だ!」

「今は稼ぐ事ができないのだから、これくらいは頑張らないと」

と、自分のキャパ以上の負担を一心に担っていた気がします。

今思えば・・・不得意な料理も掃除も育児も・・・

自分の能力以上のクオリティを保とうと頑張っていました。

でも、いざ働くことになればそんな生活を維持する事は

到底出来なくなってきました。

でーーーー色々手抜きしてみて気づいたんですが

「これは、母親が無理して頑張る事ではないのでは??」

と、思ってきたのです。

実際、海外に比べて

「日本の母はすることが多すぎる」

「次世代ママへ変わっていこう」

負担の多すぎる日本のママ達に楽して楽しく笑って過ごしてもらいたい・・・

と説に思っています。

ときには・・・ママが多くの家事や育児を手放すことです。

他にも探せば沢山ありそうですが、ざっとこんな感じです。

  • 食事作り
  • 掃除
  • 子育て
  • 休日の家事

仕事の有無にかかわらず、育児をしながら食事を作るって大変!!

日本の主婦の諸先輩方は熟してきたのかもしれませんが、一家族ごとの単位が小さくなった現代家庭において料理を全て奥さんの手作り・・・

なんて、できないときも多い。

アジア圏なんて、朝から屋台で朝ごはんを買う人や食事する人が多いらしいし・・・

大人も子どもも・・・

息子が海外でにホームステイした時も
「朝ごはん、夜ご飯付き」だったけど、
朝はパンとコーヒー。
夜は、冷凍ピザや包丁すら使わないサンドイッチなんてことも多く
「今日、コンロ使った?」
って日も、かなりあったようでしたが・・・
それでもみんな笑顔で美味しそうに食べていたそうです。

(日本人の食卓は贅沢なんですねーーー)

いくら料理が好きでも、育児で疲労困憊の中で・・・

それでも家族の食事を毎日つくるなんてすごいことなんです。

私は働きだしてから、出来合いの総菜を買って帰ったりすることも増えましたが、子どもたちは美味しいと言って食べてくれていましたし・・・

1品はつくることで自分で自分を許してあげていました。

それで、いいと思うんですよねーーー。

働いていない時は何だか引け目もあり、丁寧にまあまあ食事をつくっていました。

一汁三菜を心がけていて、子どもを育てながらの一汁三菜は頑張りましたよ、

一汁三菜をつくるために、夕方子どもを放置する時間が長引いたり・・・

イライラしたり・・・それってどうかなーーーって思うんですよ。

ママは、家政婦さんではありません・・・

 

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私は掃除が苦手・・・でも子どもがいれば、掃除はしていないと嫌ですよね・・・

でもねーーー本音は一番散らかす人が掃除をすればいいと思いつつ、

だいたいの家庭はママがきれい好きで、一番散らかすのが、子どもも含めて掃除をしない人だったりするわけですよーーー

だから今は便利な世の中なんで・・・
持ち運びの大変な掃除機を自分でするの辞めましょう。

そういう時代です。
ルンバーーー

いやもう2今は・・・20,000円以内で、

お掃除ロボットが手に入る時代がやってきています。

そもそも、掃除機は子どもがいるときにかけるのって至難の業。
みんなが、出かけている時に掃除をロボットにしてもらってーーー

帰ったら「わーキレイ」で・・・助かる!!

もちろん、床に転がっているものは片づける必要があるのだけれど・・・

お掃除ロボットは人間が手が届きにくいソファーの下も掃除をしてくれる。

重い掃除機を持ち運んで、部屋ごとにコンセントを差し込んでーーー
なんて・・・その時間も勿体ないしーーー結構重労働なんですよ。

やめよーーーそして、ロボット買うお金がないのならーーー

掃除も気がついたときでいいくらいアバウトに・・・

 

しかしながら、子育ては・・・
ある程度ママしかできないことがあるんですよ。

それは、ママにしか与える事ができない「愛情」

というものが生物には存在してて、子どもたちもそれを求めている。

でも、日本のママは子育ての全責任を背負い過ぎかな~って思うんです。

「夏休みの宿題やったの?」って子どもを見るのもママ。

子どもが学校から持って帰ったお便りに目を通すのもママ。

子どもが周囲に迷惑かけて謝るのもママ。

でもねーーー

子どもってその部分をママに求めてるのかな?

パパの役目はどこ行ったの??

そして、地域のみなさんも忘れないで温かく見守って欲しい、

子どもは騒ぐものだし、迷惑もかけちゃうこともあるし、この子達は未来の納税者であり日本の支えでもあるんです。

みんなで育てましょうよ・・・

ママ達は、育児はこうであるべきとかの概念を捨てて・・・

愛情を十分に与えることに専念してほしいなーーーって思っています。

休日も休みなしで家事を笑顔でやってるママは凄いですよ。

凄いし、最高に偉い。

普通に難なくこなしている様に見せかけ・・・

来る日も来る日も段取りよくやっている日本のママに脱帽です!

でも・・・家族全員がいざという時に助け合う為に
ママも積極的に休む事はもっと重要!

食洗器とか、お掃除ロボットとか家事の負担を減らしてくれるロボットが

次々と世の中に出てきているのに・・・

どうして女性は女性らしく…という考えが日本にはまだ・・・

こんなにも定着しているんだろう?

 

休もう休もう。
本当に、休もう、家事も育児もほどほどに。

女性はね、子どもを産むことができる尊い生物なんですよ。

その尊さは、命懸けなことをわすれないでいていほしい。

「産後の肥立ちが悪い」

と言う言葉が昔にはあったように・・・

出産というのはそれくらい大変なんですよ。

「休んで」

「少し、休んで」

「休めないのわかってるけど、手を抜いて・・・」

 

「家事や育児は、女性だけの仕事ではない」


はず、多くの辛いことや我慢を手放して・・・

自分にしかできないことや時間も作ってほしい。

夫婦はね、協力してお互いを高め合う存在なはずーーー
夫が労働担当で、妻が育児家事担当ではありません・・・
力を合わせることが大事だし、いてくれるだけでありがたいって言う、出会った事が素晴らしい感謝の存在であるべきなはず・・・
とはいえ・・・家事育児ぜーーーんぶやっちゃってなーーーんちゃないツワモノも
ときにいますけどねーーー

でもね、人生は短いから、楽しいと思えて幸せを感じれて、頑張りたいと思えることに時間を費やして欲しい。

他人が求める自分像になっていては、いつか自分が疲弊して崩壊してしまいます。

それは、私も少なからず実感してきました。

ママはね、最低限の事をして笑って子どもと向き合えばいいんですよって本気で思っています。

 

「障害」児・者の自由って

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私達、「障害」児・者に関わるとき

願うことが、かなえてあげたいことが・・・【健常】と言われる子より

【ある】と言っていいことがあります。

なぜなら・・・ただでさえ世の中は【健常】に合わせられ・・・

「障害」と言われる人達は「不自由」を強いられているからです。

だから・・・

食べたい物を食べる自由、行きたい所に行く自由、言いたいことを言う自由、

「こう生きていきたい」と願って努力する自由・・・

そんなことをとても応援したくなる・・・

私たち福祉専門職と言われる仕事にも

よく・・・さまざまな自由を手助けする側面があります。

ですが、「何でもできる」という自由であるはずが・・・

「実際はできないことばかり」

「やるべきことを誰も教えてくれない」

「自己責任で選ぶことができない」

などのネガティブな部分が「障害」児・者にはよくあります。
自由の陰にひそむ・・・

このような無力感や孤独感それを日々味わっているのが現状なんです。

 昔、第二次世界大戦時、ヨーロッパにおいてドイツ国民がナチズムに傾倒していくことを受けて、中世の封建制度が崩壊しても・・・なお服従や隷属を求めてしまうメカニズムがありました。

中世社会を特徴づけるものに「個人的自由の欠如」がありました。

貴族に生まれた者は貴族に・・・

職人に生まれた者は職人に・・・

農民に生まれた者は農民になるしかなかった時代・・・

日本もそうでしたよねーーー(今もあるでしょうけど・・・)

それでも、生来の役割を果たす者には・・・

社会の一員としての安定感や帰属感がもたらされていたのではないかと思います。

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やがて資本主義・民主主義の社会が到来。

人びとは伝統的な束縛から解放されます。
そこに待っていたのは・・・

自由であるがゆえに個々人の意志や責任感、価値観が試される社会でした。

何でもできるはずなのに・・・何でもできる訳ではない・・・

そんな無力感や孤独感と向き合わなければならない社会でした。

このような自由に耐えられない人びとは・・・

権威主義や破壊性、機械的画一性に逃避したようです。
権威主義とは・・・組織や権力など強大なものに自己をゆだねること(自由と言いながら自分で責任を取ってやることにはならなかった)

破壊性とは、自己や他者を攻撃すること。(今もありますねーーーネットなどでも)

機械的画一性とは、社会が求める役割に自己を埋没させること。(自分を合わせちゃう)

近代史をながめれば、これらの事例は無数に存在していますね。

「人間が積極的に社会過程に参加する」

ことで、無力感や孤独感を克服できるからなのでしょう・・・

「何でもできる訳ではない」

それは・・・「障害」児・者に限らずでもあります。

でも「障害」児・者はその何倍もなんだ!!と自覚しつつ・・・

できることを少しずつ拡げていく努力。(周りの努力が必要不可欠)

これが私たちがこれから自由への手助けをする上でも・・・

決して忘れてはならないことなのだと思います。

【自由】そこには自分で自分をつくっていく・・・

選び取っていく、責任を取っていく・・・

たくさん与えることができる人になるためには・・・

きっとたくさんの人と出会い、たくさん学び、

自分事ととして考動し続ける・・・

そこが重要なんだなーーーって思ってます。

【考動】あるのみ!!

 

「障害」権利擁護、契約支援を考える

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最近、「障害」児・者の保護者のみなさんと学習会をする機会が度々あり。

内容的には、みなさんの「知りたい」をテーマにしています。

様々な知りたいの中で・・・

最近は子どもの「親亡き後」から「成年後見人」の話が聞きたいと来ていました。

そのとき、私はふと・・・前にどこかで聴いた話を思い出しました。

確か・・・社会福祉士による、

権利擁護や契約支援についての講話だったと記憶しています。

利用者の金銭管理を支援することの是非対しての話に及んだ時に話されたのが・・・


「グループホームなどの施設側に、金銭管理を代理する権限は本来ありません。

成年後見など外部の制度を活用すべきでしょう」

と言われたのです。

そのとき・・・ふと思い出した私がグループホームに行っていたときの

【支援】がありました。
アニメのキャラクターがプリントされた服を買いたがる、50歳代の女性利用者。

買い物に同行した際の支援について・・・

虐待に絡めて考えてみると・・・
私は確かに

「社会生活を営むためには年齢にふさわしい服も必要」

という施設側の考え方も十分理解しました。

が・・・そこはやはり・・・利用者に納得してもらった上で、

好みの服を購入する一方で・・・

年齢にふさわしい服も購入するという支援を考えていました。

(施設側は年齢にふさわしくない服は買わない、おかしいって言ってました。

私は、好きな服は室内で来て満足したうえで・・・

お出かけはTpоに合わせればいいのではないかと思っていました。

ご本人の“好き”も叶えてあげたいから・・・)

ですが、私の考えた支援では、買い物を支援する者が、

契約も支援することになります。
支援者が行動援護と金銭管理を一緒に行なえば・・・

利用者の束縛につながりかねないってこと・・・なのかーーー

買い物という契約に関わる判断は・・・

これで行くと後見制度や日常生活自立支援事業に携わる支援者に

任せるべきなのです。

私は考え方が不十分なのか?

何だかもやもやしていました・・・

親として考えたときも私は本人の意思を尊重したいと

思ってやってきているので・・・

 

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講話の後、顔見知り施設長が、私に話しかけてきました。

 

「権利擁護の大切さは分かるんけど・・・

利用者さんの買い物を支援しながら・・・いちいち後見人さんとかに連絡して確認する訳にもいかないし・・・実際にはなかなか難しい問題だよね」

 

確かに難しい。それでも、実際に行なうとすれば? 

50歳代女性の服を買いに行くという、先の事例では、どうなるのでしょう?

例えば日常生活自立支援事業を利用するとして・・・

その担当者に前もって事情を説明しておき、まず買い物でのルールを利用者と決めてもらう。そしてそのルールに従い、買い物を支援するってことかな?

と、とりあえず私は、考えてみました。

そう考えてはみたものの、これが“正答”と言えるのかどうかなのかは分かりません。

さまざまな知見に触れながら、日々考え続けるばかりです。

だって・・・私は娘の幸せを願っているし・・・

今の生活に満足している娘のペースを崩さず

生活していってほしいと願っているから・・・

それは・・・きっと・・・どの保護者もそう願っているのでは?

そう思っています。

 

さあーーーみんなでよりよい社会にしていきましょう

 

「障害」者の就労モデルってどんな?

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だいたいの障害者支援施設は・・・

障害者総合支援法の枠組みの中で運営されています。

まーーー法制度が実態に合っているのかどうかは疑問ですが・・・

私は正直、少なからず“ズレ”を覚えてます。

個人的な印象ではありますが・・・

むしろ“逆”ではないかなーーーって思えることも・・・

 

顧問をしている事業所では、就労継続支援B型事業を行なっています。
利用者さんに労働を提供し、その利益から工賃を分配する事業です。

職業訓練としての側面も十分あります。

訓練ですから、将来のステップアップが想定されています。

就労継続支援B型事業の“上”には(上下で表すのもなんですが・・・)

雇用契約を結んで法定賃金が支払われる就労移行支援A型事業があります。

また、2年限定で就業支援に取り組む就労移行支援事業というのもあります。

さらに“上”には一般就労があります。(「障害」者雇用枠)

特別支援学校を卒業したらB型事業所で訓練を積んで(ここにも規定があります)

賃金の高いA型事業所に移り、やがて一般就労を果たす・・・

筋書きはこんな感じです。

現行の法制度からは、このような“人生モデル”がうかがえます。

ですが私は、いささか違和感を覚えます。

B型事業所で支援を行なっていると、ステップが“逆”の場合もある。

特別支援学校を卒業し、一般就労して精勤、

加齢にともないA型事業所に移り、やがてB型事業所に落ち着く・・・

そんなとき・・・実態に即しているのは・・・

“上昇”するモデルではなく・・・

“下降”するモデルなんですよね。

社会の意識が変わりつつあるのか?

それとも法的な規制が厳しくなってきているからか?

近年は障害者の採用に前向きな企業が増えてきました。

一方「障害」者の多くは、若いうちは心身の能力が高く・・・

加齢にともない低下していきます。(まあ誰しもそうですが・・・)

私の関わるB型事業所には、利用者さんが働きながら訓練を積み、

A型事業所や一般就労に移行していく、その支援が求められています。

しかし、実際に求められているのは、一般企業やA型事業所で頑張っていた人たちが、必要とされる労働力を提供できなくなったとき

(頑張りすぎて心身の病気になったりする方もいます。引きこもってしまったり・・・)

それでも「働きたい」という気持ちに応える“受け皿”としての機能かも知れません。

あくまでも私個人の見解ですが・・・

このような事業所がある地域が、たまたま“下降”するモデルに合っていただけ

とも考えられますし・・・

個別支援の観点からは、モデルの想定自体、そぐわないことでしょうから・・・

ただ・・・この事業所ではB型の垣根を超え彼らの能力に見合う「賃金」を

保証しています。

また・・・やっていることがなかなか先に結びつく場所が担保されないので

卒業していく子もなかなかいません(合わずに辞める子はいても・・・)

 

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このような事業所に何が求められているのか?

求めに対して何ができるのか?


そのような問いかけが、いつも頭の中でグルグルと回っています。

みなさんのところはいかがでしょうか?

 

良い支援って結局【理念】に基づくもの

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私が日々かかわっている「障害」児・者の支援とは?

共に生きていくとは?共に育つとは?共生社会とは?
日々・・・【問い】の毎日です。

そしてしばしば聞くことに・・・

「良い支援とは?」があります。

 

就労支援事業所や「障害」関係の様々な施設では

利用者さん個々の事情に対応した個別支援を行わなければなりません。

ひとくくりに「良い」と言えることではないとは思うのですが・・・

頭ではわかってはいても・・・やはり

「良い支援とは?」「最善策は?」

と問わずにはいられません。

そんなとき思い出すことがあります。
この社会のさまざまな所で行われている取引という行為は、

大きく2つに大別されるそうなのです。

 

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1つは「等価な価値を交換する取引」

 

値段1100円のお菓子を買うためには、お金を100円支払う。

このような、シンプルな取引です。

 

もう1つは

「両者で共に創出した価値を分け合う共同プロジェクト型の取引」


例えば、習い事に月謝を1万円支払ったとしても、対価分の1万円分が必ずしも

身につくとは限らないってこと・・・

そこには本人のやる気や努力や環境や仲間・・・様々なことが影響するので

支払う側の“協力”を必要とする取引になります。

学習塾や家庭教師などもそうですよねーーー

サボったり・・・教師に従わなかったり・・・

参考書ややるべきことをせずでいれば、それは当然身にはつきませんから・・・

病気治療や音楽教室、フィットネス、結婚披露宴、住宅建設なども、

共同プロジェクト型の取引に当たるとのこと・・・

確かにそうかもしれませんね・・・


その中には

私たちが日々行なっている福祉支援も含まれるのではないでしょうか?

言うまでもありませんが、これは支援者だけで支援は決してできません。

対象となる利用者がいて、初めて成り立つことでもあります。

支援を良いものにするためには、利用者さんの“協力”も不可欠です。

また、様々なそこに関わる方々の協力も必要になってくるでしょう。

良い支援は、支援者と利用者と周りで共に創り上げるもの・・・

そこには、利用者さんから“協力”を引き出せる、

またその利用者さんに関わる人々が進んで“協力”したくなる

そんな体制づくり・・・

そして何よりも“良い支援者”が求められるのかも知れません。

 

さあ“よい支援者”とはいったいどんな支援者なのでしょうか?

“よい”にも人のとらえ方は様々です。

“よい支援者”の定義合わせをしておかないと・・・

これまた・・・間違ったことになってしまいますねーーー

就労支援事業所に理念“コア”がどこにもあるでしょう・・・

きっと・・・それを毎日みんなで唱和すると・・・

見えてくるものがあるのではないでしょうか?

 

私たち会の理念は

 

本会は地域社会の中で「障害」児・者の命と尊厳が保障され、だれもが

幸せに生きることができる共生のまちづくりを行う。そのために、会員1人1人が

自ら考動し、筑紫野市はもとより、すべての人と全てのまちへつながりの輪を

ひろげていく

 

 

 

 

「価値観」が違うを味わうこと

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私たちは日常の中で価値観の異なる相手であっても・・・

仕事として、また地域住民として

お付き合いしなければいけないことが多々あります。

また福祉関係にいますが・・・

支援側としても・・・同じ

どんなことがあっても支援しなければなりませんよね。

これは福祉専門職に限らず、教師や医師、警察官、弁護士などの職種であっても

また一市民であったも同じこと・・・

福祉専門職の研修で、あるとき・・・

価値観の葛藤を経験するためのワークがありました。
死刑制度についての討論会です。

個人の信条に関わらず・・・

賛成派と反対派の双方を経験するというルールなので・・・

ある種のロールプレイとも言えるでしょう。

3人1組になって、うち2人が賛成派・反対派として討論し、

もう1人は観察者を担当。役割は5分ごとに交代します。

賛成派は

「被害者と遺族の心情は、絶対に無視できるものではありません」

「どうせ税金を使うなら、凶悪犯の更生よりも

他の福祉課題の解決に回す方が合理的ではないですか」

などと主張します。


一方、反対派は

「日々の報道を見ればわかる通り、死刑判決だけでは

 凶悪犯罪が防げないことは明らかです」

「人間が判断することですから、冤罪も誤審もなくならないのではないか」

 

などと訴えます。

 

そして観察者は、両者の意見に耳を傾けつつ、討論の様子を見守ります。

賛成派の立場では・・・

意見がいくらでも飛び出します。

言えば言うほどに感情が高ぶるのが分かりました。

 

反対派の立場では・・・

しっかりと考えなければ意見が出ません。

気分は冷静に、発言は慎重になりました。

3つの役割をひととおり経験した後・・・

みんなで感想を話し合いました。

「死刑賛成への同調が容易なのは、制度の根底に

『やられたらやり返す』みたいな単純で分かりやすい

価値観があるからでは?」

「制度自体が今現在存在し、実行されているので

制度上それが有効なのだと思っていた」

「死刑反対の言説は複雑で分かりにくいが、

そこに人間を“野蛮”から遠ざけているものがあるように思える」

「命の重み、亡くなった命、罪を犯して生きる命

 同じ命ではあるのだが・・・」

 

などの意見が出ました。

 

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また、討論会の観察によって思ったことは・・・

強くて断定的な口調には説得されやすいことや、

受容に徹するとなかなか反論しにくくなること・・・

自分の価値観に反する態度は取りにくいことなどが、実感として分かりました。

新しい気付きの多いワークでした。

やってみて「よかった」で終わるのではなく

これを今の現場でどう生かしていけるのか?

日々の中でこれほど重い内容ではないにしろ・・・

「価値観」の違いはたくさんあります。

どんな現場でも、どんな場所でも・・・

その中から・・・やり切れていないこと・・・

見過ごしてしまっていること、話し合いがなされてないこと・・・

あるのではないかな?

そんなことも考えさせられました。

 

ですが、死刑制度について・・・

私は、まだ判断も決断もはっきりとできないままです。

「障害」診断を受けた後のケアは?

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私はよく、「障害」と診断を受けたお母さん方から相談を受けます。

私には医学的知識も、メンタルケアの技術も、「障害」の正しいかかわり方の知識はなくもないけど・・・専門家ではい。

ただの、「障害」児・者を育ててきた人であり、そのような団体の理事や取りまとめをしているただのお母さんなだけで・・・

正直なところ・・・良く知らない。かもしれない・・・ということ

知っているのは

「診断を受けた時の苦しみや辛さ」

「家庭で「障害」児と暮らしていく」

という経験がある・・・そして団体で数多くの子を見てきたってことかな?

でも・・・そうそこなんですよ。って思っちゃう。
「診断を受けた時の苦しみや辛さ」

「家庭で「障害」児と暮らしていく」ことへの配慮やケアが少なすぎる。


物凄く辛く壮絶で大変なことなのに、そのケアがなさすぎるから・・・
「障害」の診断を受けた後に路頭に迷う親が沢山いるんです。

診断後に、心を殺されたようなあの気持ちを抱えながら・・・

私に相談してくれる人のことを思うと、当時の私を見ているようで・・・

胸が痛くなる。

診断そのものが、ご両親の皆さんの心を殺してしまうようなもので終わらせてほしくないなーーーと思っています。

「障害」の診断を受けた苦しみというのは、周囲の想像をはるか上回ります。

今までの人生で味わったことのない、言いようのないような感情が・・・

私自身をむしばんでいく。

そう・・・そんなにも辛い思いを診断という形で与えておいて、

ケアしてくれる人が少ないって、どういうことーーーって思うんです。

自分のお腹の中で10か月を過ごし、そこから夢の様な数年間の育児を味わう。

そんなときに受ける障がいの診断は

もしかしたら

「期待した子どもの死を受け入れる」

ことと同じくらい「障害」という形で生まれてきた赤ちゃんは・・・

育児書では太刀打ちできないようなことが沢山起こるんですよーーー

たとえば、うちの場合だと言葉・・・
口唇口蓋裂だったので・・・

発音もだけど・・・言葉が出なくて・・・焦りまくり・・・

(結局。滲出性中耳炎があって遅かった・・・)

私にも知識がなくて、日頃の私の関りがわるいんだーーーと思っていた。

健診時に相談しても「ちゃんと教えた訓練してあげてる?」

と、逆に聞き返されてしまう始末・・・
「やっぱり私のせいなんだ」と・・・悲しいかな思っていたんですよ。

産後ってーーーただでさえ、不安がつきまとうものじゃあないですか?

とにかく、育児書通りにいかないことだらけで・・・

それを誰かに相談しても

「考えすぎ」

「母親の何かが欠如」

で言い含められてしまい・・・とにかく孤独だったんです。

「「障害」ってなんだろう?」

「治るの?」

「これから、どうすればいいの?」

「誰か助けてくれる人はいるの?」
不安と疑問と悲しみで、もう心も頭もぐっちゃぐちゃ!!

誰かと目を合わせたり・・・

一言発すれば・・・涙が止まらなくなってしまうそんな子育てでした。
そんな中、必死で涙をこらえながら口に出来た言葉が

「私。母親できてないですか?」

それに対する回答は

「立派にやってるじゃあない・・・」

私を傷つけない様にと思って出た言葉がそれなのかもしれない。
それは、未だに分からない。

でも、不安を少しでも取って貰いたいわたしが、必死で発した質問。
責められてばかりいた私が

真っ暗闇に、置き去りにされたような感覚から救い出された瞬間でした。

とりあえず、帰りの車の中で声をあげて泣いた。

打ちひしがれていたときの行動を

のちに友達に話したときに

「母は強いよね~、子どものためには・・・すぐ立ち直るんだから」

と言われたなーーー

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でも・・・

その頃の私は、まだ強いとか立ち直ったとかではなくてーー

わが子と向き合うこともしっかり出来ず、娘がどういう状態なのか?で必死、

そして。自分の孤独と不安をどうにかしたい一心で

本やなんかで情報収集をしていました。

とにかく、今いる真っ暗闇から光の筋を探し出したかったから・・・

福祉や医療、幼稚園も小学校、中学校・・・高校と多くの支援の人に支えられてここまで来ることが出来た。

でも多くは・・・「わが子への支援」

すなわち・・・仕事であって・・・

人生のどん底に落とされている母親へのサポートをしてくれる人は・・・

ホントに少ないんですよねーーー

むしろ、関われば関わるほど安心より不安や怒り、憤りが蓄積することの方が

私の子どものときはそうでもなかったけど・・・

今は多いのではないかなーーー。

こうした声は、同じ境遇の親の方からも聞く事も多い。

反対に支援する側も保護者の対応は難しいと思っている人が

多いようなのだ。

でも、それってなんとも悲しい・・・子どもの支援はしてもらえるけれど、

支援者と保護者は信頼関係が築けていない・・・

なんて・・・まるで仮面夫婦?

よく、「障害」児のお母さんは「強い」とか「明るい」って言われるんだけど・・・
みーーんながそんなわけじゃないし・・・
たいていの人は・・・真っ暗闇の中で日々もがいています。
私もその一人でしたよ。

すこし、明るくなれたり強くなれたのは・・・

支援とか医療とか福祉の力よりも・・・

同じ境遇の仲間の存在でした。

まだ私自身そんなに自信をもって育児に対する答えが出ているわけでもないし、

知識が出そろってるわけでもないけれど・・・

でも、「障害」の診断を下されて、真っ暗闇に突き落とされて、

出口も見えない・・・んーーー出口があるのかも分からない・・・

何も見えない状態の中にいる。

そんな中で・・・

「自分の努力」だけで、這い上がってきなさいって拷問みたいなものなんですよ。

誰かが・・・突き落としたのなら、手を差し伸べて欲しいし・・・
ロープだけ渡して、おしまいじゃなくて・・・

「頑張れ!!」

「こっちが出口だよ」

と応援して欲しいんですよーーー。医療や福祉が、親に負担を掛けないでほしい。
医療や福祉が、教育と連携して長期的な支援として手を取り合うこと。
そして、その「障害」児たちが尊重されていること。

それが何より、親の安心に繋がるし・・・信頼に繋がると思う。
親に信頼してもらった方が・・・働く側もやりやすいんじゃないの?!かなーー

専門職の方々が各々それぞれに、経験を積んだ知識があってもーーー
その子やその家族に対して「連携」が取られてないければ、
それはもはや、「障害」児とその家族を生き辛くしていること。

地域によって支援格差があることや、人手が足りずに知識の少ない職員を増やして終わりじゃあなくて・・・
どこに住んでいても・・・親がどんな状況でも・・・

「障害」の診断を受けた親子が頑張ろうと

前を向けるようになって欲しいんですよーーー。

私の苦しかった数年間を思うと、

「頑張れ」

「大丈夫だよ」「ここにいるよ・・・」

と応援せずにはいられないんですよ。

 

誰もがみんなで、手を差し出してあげれる世の中になるといいなーー

って思います。

心ない声に対処する方法

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福祉に関わる仕事に就いていると・・・

“心ない声”を耳にすることがあります。

そう・・・やまゆり事件も判決が下りましたが・・・

事件に発展することもある・・・ってこともあるし

グループホームの反対運動みたいなことも・・・

実際にあってますよねーーー


例えば、軽い重いで言いたくはないですが・・・

認定上重度「障害」のある人たちの価値について・・・

社会的な有用性から、価値基準を「ない」あるいは「低い」と決めつける【声】

ってありますよねーーー

これは・・・その方の考え方、思考です・・・

良いのか?悪いのか?私はジャッジしませんが・・・

「違う」「間違いだ」と私は直感的に思ってきていました・・・

でもそれには周りに「説明」がいる・・・

そして、さらに・・・

「どこが違うのか?」「何が間違いなのか?」

まで把握検証しておかなければならないと考えるようにもなりました。

漠然とした正論めいたことではいけないなーーー

って思うようになったんです。

 

様々な“声”に対処できる自分自身の姿勢を身につけたかったから・・・

 

ナチスの強制収容所を生き延びた精神科医のヴィクトール・E・フランクル。

なんとなく・・・やまゆりの事件があった後・・・

報道が一段落して・・・ナチスのことを思い出したとき・・・

この方の名前が思い浮かびました。
フランクルは

「社会の役に立つということは、人間存在を測ることができる唯一のものさしでは

絶対にない」

として、窓際に座って居眠りをしているおばあさんの例を挙げていました。
このおばあさんの存在は、有益とは言えない非生産的な存在です。

一方、おばあさんを愛している子ども達や孫たちにとっては・・・

かけがえのない存在でもあります。

 

これは私が日常でかかわっている「障害」児・者たちにも当てはまります。

 

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私たち人間の価値は、社会の役に立つ

「生産的・能動的な価値」

と、誰かに愛される

「受動的・非生産的な価値」

の、2種類に大別されるそうなんです。

そのどちらが有益で大事なのでしょうか?

どちらが良くてどちらが悪いなんてあるのでしょうか?


この2点を比べてみても

「他の何者にも代えられない」という意味では・・・

どちらも同じだと私は思うのです。

 

フランクルの言説は、

「私たちは誰もが他者の価値を高めることができる」

とも受け取れると思います。

受動的な価値・・・そこには、目には見えないかもしれませんが・・・

働きかけができている訳ですから・・・ね

でも「障害」児・者だからと言って・・・

どちらか一方だけ・・・ってことでもないんですよね・・・

私は、受動的な価値を高めていく・・・能動的な行為。(ちょっと難しいかな?)

それが“支援”なのではないかな?と思うようになりました。

心ない声に向き合うとき・・・

「同じ命なんだから・・・」

「人権があるんだから・・・」

なんて実際に言いがちなんです。間違いではない・・・

でも実際に対処するとき・・・

もっと身近でわかりやすい事例

たくさんの“例”を持っておくこと・・・

これって大切だなーーーって思っています。

 

【個別支援計画】について

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現在は、福祉の現場だけではなく・・・

幼稚園や小中学校でも当然のようにやっている

【個別支援計画】

特に福祉の現場においてこれは必須!!

“大前提”ではないでしょうか?


「どのようなものなのか?」

「どうして必要なのか?」

 

という疑問への分かりやすい回答を求められることがありますが・・・

0から5歳児でもわかるような優しい説明の仕方・・・

って考えていたときに思い出した研修がありました。

とてもわかりやすい説明でした。

が・・・何かの学習会のときだったか?は忘れてしまいましたが・・・

 

そのとき聴いた記憶を手繰り寄せながらお話しすると・・・

こんなことでした。

 

個別支援を眼鏡に例えたたとえ話での説明だったかと思います。
たぶん・・・初めての方にも・・・

とても分かりやすいものではないかと思いますので・・・ご紹介しますねーーー


眼鏡は、視覚に困難がある人たちのために必要な器具です。
とは言え・・・みんなが同じ眼鏡でいいのか?

というと・・・そういうものではありません。

弱視や、近視、乱視に悩む人、色覚判別、直射日光が苦手な人など・・・

それぞれに視覚に関しての“困難”の中身がみんな異なるからです。
よって・・・個々人の困難を把握し・・・

それに応じた最適な眼鏡を作らなければならないってことになりますよねーーー

福祉的な支援もこれと同じこと・・・さして変わりはありません。
それぞれの個々人の困難を把握し・・・

それに応じた支援を行なわなければならないからです。

発達しょうがいだから・・・これ!!・・・

自閉だから・・・これ!!・・・

知的だから・・・これ!!・・・

ってこともなくて・・・繊細な微調整も必要になってきますよね

 

合わない眼鏡を無理に使うと、目が回るような気がしたり

視点が合わずに頭痛がしたり・・・

遠近感が分からずにつまずいてしまうような状態になってしまうことに

なりますよねーーー。

 

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同様に、画一的な支援の押しつけは・・・

かえって当事者の不利益を招くことになるかも知れません。

とてもわかりやすい説明だなーーーって思います。

 

ご自分の事業所などはいかがでしょうか?

それぞれの利用者さんに【個別支援計画】どのようにされてますか?

 

「そんなの形だけじゃあないかーーー」

「日々の取り組みこそ大切!!」

 

そういわれるかもしれません。

でも「視覚化」って重要・・・

それって支援してる側が重要視していることでもありますよねーーー

 

ビジネスの世界では・・・よくPDCAなんて言いますが

見える化、仕組化、習慣化

これって福祉の現場でも必要ですよねーーー

現場に携わるものみんなが・・・「一枚の絵」を描けているかどうか?

多くの人が回せない理由は、まずそもそも「見えていない」

とも言います。

「見えてない」=「見えるようにしていない」

ともいえるかもしれません。

 

さあーー誰のためになんのために・・・どうしていきましょうか?

今一度・・・【個別支援計画】見直していきませんかーーー?

 

 

 

 

 

 

「障害」児の親でも自分らしく生きていこう!!

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本当に「障害」児を育てにくいなあーーー

生き辛いなあ、と思うことが多い国だなーーー

と思っていました。

 

私も子どもが小さな頃は・・・大変すぎて育児をしながら

 

「人がいないとこで・・・暮らしたいな」

なんて思ったこともありました。

そう思った理由は何なのか?

 

「誰もいないとこで暮らせたらいいのになーー

➡家族で暮らせたら楽なのになーーー

➡周囲がいなければ楽なのになーーー」

 

はい!そう、ここなんですよーーー問題はーーー


もちろん、「障害」児との向き合い方にも一苦労しますが・・・

 

それよりも何よりも・・・

周囲との関りが結構大変だったりします。

ということは・・・なんとも悲しいかなーーー

私は、周囲の目線をかなり気にして育児をしていたんですよねーーー

だから、ただでさえ大変な「障害」児育児が・・・

もっともっと輪をかけて大変で・・・かつ辛くなっていっていました・・・

人と関わり合いながら生きていく中で、

まったく人を気にせず生きるのは難しいことかもしれません。

(はい!!難しいでしょう)

 

でもね、「障害」児のママ達も、少しでも生きやすく

自分の人生を生きてもらいたいなーーーって思います。

「これで良かった!!」

と、人生を肯定しながら生きてもらいたいなーーーって思います。

 

私は、ある程度・・・自分の好きな人生を生きています。

子どもの人生に自分を投影させず・・・

自分の背中を子どもたちに見られても恥ずかしくないようにしたいと

思って生きてきました。

子どもが自立してからも・・・

「私はこういう人間です」

と生きていたいと思ってきました。

理由はシンプルで・・・

「○○のママ」「妻」として・・・子どもや家族だけとの

人生を生きるだけではなく・・・

自分の人生を生きれるように常に努力していたいと思ってきました。

「好きか嫌いか」「必要か、必要ではないか」

「やるか、やらないのか」

を自分の意志で選んできたことは・・・

やがて自分自身の自信になり・・・

子どもたちを守っていくエネルギーにもなってきたなーーー

って思っています。

 

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とはいえ・・・

こうなるまでには・・・

私も昔は常に周囲のことを気にして・・・

周りに迷惑をかけないように・・・

周りを悲しませないように・・・嫌われない様に・・・

周囲の視線を常に気にしていました。

 

でも、それは・・・自分の人生じゃないなーーー

何も悪いことをしているわけでもないのに・・・

「周りと体裁を取り繕う人生」をずっと歩いてきていたました。

だから「障害」児のママとしても、常にそんなかんじでしたねーーー

 

本当は子どもが起こした問題行動も、・・・

本人の「障害」特性が原因で起こっていることで仕方がないことも多いし・・・
だからこそ、子どものケアを一番にしたいのに・・・

わが子のケアを差し置いて・・・

まずは迷惑をかけたことを周囲に謝った後に子どもをめちゃくちゃ叱る。

叱ったところで、そんな手法じゃ子どもには伝わらないのに・・・(笑)

 

でも、あるときから・・・

周囲ファーストから子どもや自分ファーストへ切り替え・・・
そして、自分がどういう人間でありたいのかを真剣に考え始めました。

その結果、大変な「障害」児育児も楽観的に思えることが増え

何より【仲間】がいることで1人じゃあないって・・・

強くもなれました。

それでも、やっぱり日本で生きている以上、

周りと違うことをわが子がやってしまうと・・・

まだまだ恥ずかしくなってしまってました。

 

でもねーーーそれはそれで、OK!!

今日から、少しずつスタートしていけばそれでOKなんです。

大切なのは、急にかわることじゃーーーなくて・・・

少しずつ子どもと共に・・・変化していく自分を増やしていく・・・

そんなことだと思う・・・

そしてそれをあきらめずに継続していくこと・・・

そもそも、育児そのものが大変なのだから・・・

一気に変わろうなんてしなくてもいい!!

継続したことが自己肯定や自分の自信となり、だんだん強くなっていくんです。

 

そしたらねーーー

人生はどんどんいい方向にかわっていく・・・

周囲の視線を気にせずに、自分がどうしたいかで生きていく・・・

とてもシンプルで簡単なこと。

 

でもこれって日本では・・・結構・・・

勇気と強さと覚悟が必要になってきます。

ありのままで生きるために、強さや覚悟がいるって・・・💦💦💦😢

 

でも、常に周りを気にしながら集まってきてくれた人よりも、

楽に自分らしく生きて集まってきた仲間ってきっといい!!はず・・・

みなさんもぜひ・・・ありのままに生きること・・・

おすすめしまーーーす!!