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perfection of mind ~自心に究極の輝きを~

生まれ育った地域の中で、「障害」児・者が共に生き、学び、育ち、それぞれが尊重され、誰もが、幸せを感じイキイキ活動できる地域になることを目指し活動して行(生)きます。

福祉の先駆者「糸賀一雄」

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「この子らを世の光に」

 福祉関係者にとっては有名な言葉です。

福祉について学んでいれば・・・

どこかで必ず聞いたことがあるのではないでしょうか?

近代日本における障害者福祉の先駆者とされる

糸賀一雄さんが述べたものです。

「障害者も健常者もともに生きていける社会こそが豊かな社会だ

という信念のもと強い意志をもって実践を重ねられました。

最大の実績は我が国最初の複合児童施設である近江学園を建設し

「重複障害児」と向き合い実践しつつ「発達保障」など注目すべき

「問題発起」を行われました。

「この子ら」とは「障害」児・ことを・・・

「世の光」とは希望や幸福みたいなものを、それぞれ指しているようです。

「障害」のある人びとこそ・・・

社会の希望や幸福を象徴するような存在となるべき

そのように読めます。

「この子ら」その意義に気づいたら・・・

親も救われる、社会浄化される。本人も生きがいを感ずるようになる。

そしてこんなことも言われています

「略~どんなに遅々としていても、その存在そのものから

世の中を明るくする光が出るのである」

「異質の光をしっかりと見とめる人々が次第におおくなるつつある。

人間の本当の平等と自由は、この光を光としてお互いに認め合うことに

初めて成り立つということに少しづつ気づき始めてきた」

この糸賀氏が活躍した時代は1945年から1968年・・・

まだ「障害」者に対する多くの偏見を色濃くん超している時代、

社会におけるホントに先駆的な取り組みだった。

彼が訴えてきた根本的な考え方・・・・

・「障害」者の自己実現、人権

・個別的な課題と向き合いつつ発達を保障

・人々の福祉意識の変革や福祉社会の実現

こ子を組み込んだ【理念】が

「この子らを世の光に」という言葉の中に込められている。

 

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その後長年にわたり・・・

糸賀氏だけではなく身近にも同じような活動を

されてくださる先輩方も多くなってきました。

 

弱者や少数派が淘汰されていた時代を経て・・・

私たちは弱者や少数派に価値を見出すようになってきました。


前者を野生的・動物的と見るならば・・・

後者は文化的・人間的と言えるでしょう。

「この子ら」が「世の光」である社会とは・・・

文化的・人間的なものが進歩していった、

その先にあるはずです。

過去よりも現在よりも、ずっと住み良い世界であるはずです。

そのような進歩の前線で・・・導線の中で・・・

私達は働いているのかも知れませんね・・・

いや・・・「働いている」んですよね。

でもただ何も考えずに・・・

嫌!!考えていたとしても何も発信せずに・・・

ただやっているだけでは・・・

これから先は1ミリも変わりませんよねーーー

じゃあ何をするのか?先人はどう動いて世の中を変えてきたのか?

鬼滅の刃・・・がヒットしてる・・・

その中にあるものは・・・

主人公はいかに

「柱になる人と絡んでいるのか?」「呼吸を合わせているのか?」

「シンクロさせているのか?」
自分がやってないことはない?やり切ってないことはない?

そんなことを日々・・・

しっかりと洗い出していくことかもしれませんねーーー

「障害」児・者の頑張りは感動?

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「障害」児・者の頑張る姿をみて、感動したことってありますか?

某テレビ局などではよく・・・年に1回か?他でもやってるかな?

「障害」児・者達のことを取り上げて放送してもらっていますね。

その・・・頑張る姿をみて涙する人もいます。

生死をかけた実話ドラマもあったり・・・

うちの子はちょっと目的が芸能人?ってこと・・・

自分が「障害」者であり・・・

寄付をしたい人でもある子どもが毎年観たりしています。

逆に、「障害」児・者を見せものにするような動きに反発する人もいますよね。

そしてまた面白いことに

「「障害」児・者の頑張る姿を見せものにするなんてひどい」

と言っていた人が・・・

同じ口で「頑張れーーー」と言いながら泣いているなんてこともあります(笑)

どちらも「障害」児・者を思っての・・・

自然な気持ちだとは思うんですがとても不思議ですよね・・・

私は親として

「「障害」児・者の頑張りをみて、感動することについて」

チョット考えてみました。

「障害」児・者が頑張っている姿に涙する人は多い・・・

私も、テレビで生死をかけたドラマや同じような立場の方々に

涙したことはあります。

でも・・・これは親としての共感だったり、自分を投影してだったり・・・

でも?そうでない方々の涙って何なんだろう?

「障害」児・者をみて感動してしまう理由には

「「障害」児・者は可哀そう」

とどこか思う気持ちがあるからなのではないでしょうか?

可愛そうという気持ちは・・・

自分より「障害」児・者を下に見てしまっているのではないでしょうか?

そこから

「可哀そうだから助けよう」

っていう支援のもっていき方は・・・

少し違うんじゃないかなあーーーって思っています。

可哀そうだから助けようは「自分が上」ということですよね・・・

そして「自分より可哀そう=下に見ている」と思えて仕方ないのです。

みんなと同じやり方では、同じように出来ないのが「障害」児・者なんですよね。

だから「可哀そうだね」と憐れむのではなく・・・

「じゃあ、どうすれば一緒に参加できるんだろう」

と実際は考えてほしいんですよーーー

「可哀そうだね」

で終わってしまえば・・・

結果

「「障害」なく生まれてくることが出来て良かった」「そっちの世界の人の話」

 

で終わってしまいます。


「障害」児・者ががんばる姿をみて
 
「どうすれば、もっと一緒に参加できるんだろう」
「少しでも自分に出来ることって何があるんだろう」
 
と、考えることが出来るようになれば・・・
何か行動を起こしていくことだってできて行くかもしれません。

大きな行動じゃなくてもいい・・・

すぐに行動をおこせなくてもいい。

「可哀そう」ではなく

「理解したい」と思うだけで・・・

もうそれこそが・・・考えるという行動なんですよねーーー

「障害」児・者の立場になれば・・・

「可哀そう」と思われることと「理解したい」と思ってもらえることは

大きな違いがあると思うんです。

似たような感情で

「「障害」児・者も頑張っているんだ!じゃあ、私も頑張ろう」

と思うのも、ちょっと・・・???

「障害」児・者の頑張りを見て、

自分自身を奮い立たせることは消して悪いくは無いけど…

でも、「障害」児・者達は

「私達の頑張りをみて、あなたの活力としてください」

とは思ってないですよね。

「みんなが当たり前に過ごしている毎日を・・・

なぜ私達はこんなにまで頑張らなければ手に入れることができないの?」

「私達にも、頑張ったり必死じゃあなくても

 もっと配慮される生活は必要だ」

と思っているはずです。

よく・・・「えこひいき」と「配慮や支援」の区別もつかない方がいますが・・・

「障害」児・者も同じ生きやすさを求めるのであれば・・・

特別扱いはしないという考えが浮かんでしまう人がいます。

ですが、そうした「障害」児・者の配慮について

「えこひいいき」と「支援や配慮」は全く違うものです。

 

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たとえば、

  • 外国の方に通訳をつける
  • 視力に問題がある方が眼鏡を使う
  • 年配の方が杖を使う
その地域で安定して暮らしていける生活のためのサポートは・・・
えこひいきではありません。

それと同じことが「障害」児・者もに言えて・・・

字が読めない子どもにはiPadなどのデジタルコンテンツが有効なこともある。

聴覚に過敏があり、運動会のピストルの音が怖い子どもがいるのなら

あえてピストルから笛に変えるというう配慮もやられています。

これは、支援とか配慮という人として正しい精神論です。

だから、小さいうちから出来るだけ多くの子どもに

配慮や支援について自然と身につけて欲しいんですね。

  • 「障害」があるということは「可愛そう」「出来ない子ども」と思わせるような教育
  • 「「障害」児・者が頑張っているから、自分も頑張ろう」と、関係を上下に思ってしまう道徳
  • 「障害」は、不便なだけなのに不幸だと思わせるような、努力主義を打ち出すような教育

本人の努力ではどうにもできないこともあるのが「障害」

なのに・・・努力すべきという風習があまりにも浸透し過ぎている。

何も関わり方を学ばないまま大人になるから・・・

「障害」児・者へどうかかわっていいのかわからない人が

あまりにも多いと思います。
「可哀そう」と思うのではなく、

「この人たちが、一緒に暮らしていく為に自分が出来ることってなんだろう」

と考える。

これを、支援とか配慮ってよぶのではないかなあと思います。

そう自分が「障害」児・者の頑張りに対し

「自分は彼らを下に見てないのか?」

「哀れんでいないか?」をいま一度考えてみて欲しいと思います。

彼らが自分達と同じ土俵にあがり・・・

歯を食いしばり頑張るではなく、一般的な生活を手に入れることが出来るために、

自分たちにできる事はなんなんだろう?を

考えてくれる方が1人でも増えていったら嬉しいなーーーって思います。

 

「障害」児でも誰でも育児のゴールは?

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「障害」児を育てていると・・・

いつまでも続く世話に疲れてしまい

 

「何のために育児をしているんだっけ?」

 

と本来の育児の楽しみを見失いそうになります。

 

周りのママ達と自分を比べると・・・

どんどん子育てに解放されて自由になっていく周りに比べて

 

「私は、いつまでもこの育児をすればいいんだろう」

 

そんな風に思ってしまうこともあると思います。

残念ながら「障害」児の育児とは・・・そうしたもの😢

早くもっと生きやすい時代になってほしい!

ずーーーと思い願い動いてはいるのですが・・・なかなか変わりません・・・

 

でも「障害」児もそうでない子どもも、育児のゴールは結局一緒。

 

よく育児のゴールは「自立」と言われていますが、

はてさてそうでしょうか?

 

「育児のゴールは、その子自身が幸せになること」

 

まあ当たり前で簡単に聞こえますが・・・

これって親という生き物は実際に育児現場に立てば

そうしたことを忘れがちになるんです。

 

幼児期は・・・まだ遅れが気になる程度ですみますが、

学校に入って一律の教育がスタートすれば

周囲の子どもとの差が気になり、熱心に指導や教育をしてしまう親も多いのが

現状です。

親が子どものためと思って学力や生活スキルの向上を目指すのは、

子どものことを思った愛情だとは思いますが・・・

実際子どもが求めているものとは違うことも多い。

子ども達が親に求めているものは・・・

教育や指導ではなくて・・・親にしか貰えない愛情だったりします。

それにも関わらず・・・

親は周囲から遅れをとらないことそのことこそが

この子の幸せに繋がるのだと思って走り続ける(私も考えたことあります)

実際によその子と自分の子を比べるようになると、

子どもにとっての幸せとは何かを考えることすら出来なくなってしまう

それが親なのです。

なぜ?そんな幸せに対する考え方が親と子どもでこんなにもズレてしまうのか?

 

私達は

「高い学歴さえあれば、高い給料を得れる職を手にする事が出来る」

という時代に生きてきた親です。

だからわが子の将来もきっとそうに違いないと思いこんでいて

それに必要なスキルを与えようと必死に思います。

子ども時代の無邪気で貴重な時間を奪ってまで・・・

高い学歴を得るための学びを与えようとする。

自分の価値観の中でどうにか生活資金を削ってまで投資しすることが、

その子どもの幸せに繋がると本気で思っているんです。

でも、それは私達親が生きてきた時代の幸せの価値観であって、

今の子ども達が大人になったときの幸せとリンクしていくとは

私には思えなくなってきました。

 

昭和生まれの私の生きてきた時代は


「学業に力を入れて、いい成績を残し、いい大学を出て、

いい仕事を手に入れる事がこの子の幸せ」

 

という風潮だったと思います。(三高なんて言ってましたから(笑))

そうした親の理念に基づいて行動している子どももたくさんいました。

(それにあてはめられようとしていましたが・・・そうはなれなかった)


これからも、学歴が高い人が高い給料を得れる時代は残っていくかもしれませんが、
でも以前に比べれば成立しにくくなっていくのではないかなと思います。

私は、社会人となり大きな企業が倒産していくのをたくさん見ました。

大手で安定と言われていた企業がとても不安定になっている姿も

リストラも合併も・・・現在も目の当たりにしています。

いずれ、憧れの職業と言われているところも・・・

業界ごと一気に無くなる日もあるのではないかとも思っています。

昭和うまれの私達が

 

「親の言うとおりに、勉強してきて今は最高だ!」

 

と言っているのを私は聞くことがありません。

じゃあ、親が子どもに与えてあげれる幸せって何でしょうか?

幸せは

 

「未来の幸せをつかむために、今足りない部分を補うこと」

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今しかできないこと、今しか手に入らないものを感じ取っていくことだと思います。

(私はここを「障害」児をもって注視してきました)

子ども達が周囲に遅れをとっていることに

劣等感を感じさせる時間を作ることよりも・・・

何か楽しいことを考えワクワクする好奇心をチャレンジにする力にすることが

出来れば・・・大人になったときの自己肯定感がもっと変ってくるかもしれない。

それに、

「失敗は×」

と教えるよりも

「失敗から得れるものは成功ばかりより遥かに気づきが大きいこと」

を子どものうちから習得できれば・・・

大人になってからの不安感だってかなり軽減するはずではないですか?


でも、育児をしていると・・・
そうしたことにさえ・・・気づくことが出来なくなってしまうのが
「親」という生き物。

親は、子どもを一律の授業について行かせることが、子どものためになると

本気で思ってるのだから、それもある種の愛情なんです。

でも・・・とても辛く残念で悲しい愛情なのです。

がむしゃらに、今を犠牲にして・・・

まだ誰にもわからない子どもの将来を親が勝手に決めるのは、

大きすぎる罪のような気がしてなりません。

 

みんな子どもの自立に向けて子育てをしているわけですが、

一般人の自立と「障害」児の自立は、少し定義が違う様に思います。

「障害」があるということは、誰かの助けを借りながら生きていく必要がある。

だから、一般の方のように稼いだお金で自分だけの力で生活していくことを

自立としてしまっては、その道のりが険しすぎ遠すぎます。

よって「障害」児の自立とは・・・

「辛い」「困った」「苦しい」「手伝って下さい」

と言えることが自立に繋がっていくと思います。


「~をしたい」
「~を自分の力で行いたい」
「~にチャレンジしてみたい」
と、希望を支援者に伝えることも「障害」児・者にとって、自立と思っています。
そうした「自立」のためには「依存先」が沢山あることが大切です。

自立と依存とは相反することに聞こえますが・・・

本人の依存先がたくさんあることで

「ここがダメだったら、ここに頼んでみよう」

と何度断られても折れない心が、「障害」児・者の自立に繋がっていくと、

私は思っています。

これはどんな人にもいえますよねーーー

 

「ここがダメでも、こっちの作戦がある」

 

といったことがあれば、何かに誰かに執着しなくてもすむ。

「障害」児の子育てのゴールとは・・・

「その子どもの幸せを願うこと」。

簡単に聞こえるけれど・・・

生きる時代が違い、複雑な愛情関係にある親と子どもの間では

とても難しいことなのだと痛感しています。

私自身も愛情が偏っていないか?そ重すぎないか?自己中心的ではないか?

と日々反省しながら確認しながらの必死の毎日でした。

自分の生きてきた時代の幸せではなく・・・

子どもが何を幸せと思うのか?考える力も親として試されています。

 

これも育児の醍醐味なんじゃないかなあと思っています。

 

育児のゴールは、結局・・・「その子の幸せ」

どの子どもも「共通」

でもその経過と道のりを見直していく・・・

それが親の最大の課題なのではないか?そう思います。

 

「置かれた場所で咲かなくていい」よ・・・

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私が自分の「障害」児と共に生活し、

そして、「障害」児・者に深くかかわり仕事をしていると

言葉だけを見て・・・んーーーってなることがよくある(笑)

本屋さんで見かけた題名だけで・・・読んだことはないのだけど・・・

たぶんかなりヒットした本だと思うんだけど・・・

「置かれた場所で咲きなさい」

それは、環境を変えることが難しいとか、そこにいるだけでも?ってことかな?

自分自身がその場所で我慢を重ねて忍耐強くなっていくことを美徳とした言葉なのだと察しました。⁽読んでないので・・・題名からの主観です⁾

でも、一般的に考えて「障害」児・者が世間の普通について行けるように頑張るなんてどこかおかしい。

けれど・・・

「障害」児・者が、歯を食いしばって頑張る姿は・・・

なぜか美しいストーリーにもなったりします。

頑張る姿がテレビ放送されて涙を流す人もたくさんいますよね。

でもそれって本人は幸福でしょうか?

みんなが出来ていることを、自分は頑張らないと出来ず・・・

歯を食いしばって周りと同じ方法で頑張れば・・・周囲はそれを見て涙を流す。

自分が一般的に普通のことを・・・頑張ってやると感動され泣かれるんです。

その気持ちってどうなんでしょうか?

例えを少し変えて言うと・・・私は犬と住んでるから・・・

ゴールデンという大型犬を飼っていて次にはチワワという小型犬を飼いました。

2匹とも同じ犬です

同じ大きさ同じ量餌をやって・・・同じように散歩に行って・・・

毎日、熱心に幸せに元気に育ってほしいと・・・どちらかの基準に合わせたら

どうなると思いますか?

「頑張れ、置かれた場所で咲きなさい」って思うでしょか?

いやいやいやいやいや・・・・・違いますよね。

同じ犬かもしれないけど・・・

餌の大きさも違えば、量も違う、散歩の量だって・・・

同じにしたらどちらかが弱ってしまう・・・

それぞれはそれぞれの生き方や特性があるはずなんです。

だからお互いの適した環境を提供しようと飼い主として頑張るはずなんです。

こんなことを考えていると・・・ふとこれが

日本の教育に当てはめてみるとーーーなんて考えてしまいます。

日本の教育は、先ほど犬の話と同じで、大型犬にもチワワにような子にも

学年が一緒なら・・・一律ですよね。

ひとつの教科書、そして指定された鉛筆とノート。

そして、そうした決まりに対応できなければ校則違反となったり、

授業についていけないとされたり・・・特別支援学級対象じゃあない?って・・・・

よって先生も、教科書が一律なことで学期内にここまでは・・・とか

業務上の様々な理由もあると思います。

でもそのことが原因で、ついていけていないわからない

そんな子どものフォローにまわる時間もないし、同じこと以外する時間がない。

何だかおかしいなあーーーって思います。

「とにかく、ついてきて」

「遅れないようにしっかり」

「ついてこれないなら、もっと努力」

ってなっちゃうっ教育って・・・残念じゃあないですか。

本当は教育(学び)って・・・

子どものわからない?や知りたい!を引き出して・・・

「知らなかったことを知っていく喜び」なのではないでしょうか?


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ついていけないこと、わからないことが恥ずかしいのではなく
子どもたちに学びを教える場で
「分かりません」
「手伝って下さい」
「教えてください」
が言えない環境そのものが恥ずかしい制度なのではないでしょか?
授業についていく事が出来ていない子、大勢の中では集中力が保てない子
学習障害で字を読む事が出来ない子 

困っているその子ども達の困っているその部分を補うことで

お互いに学ぶことが出来る・・・

だから、「障害」児・者に不便さがあるのにも関わらず・・・

同じやり方でついていけないことに

「障害」と読んでレッテルを張って分けているというようにも思ってしまいます。

本当に、その考え方はおかしい・・・

不便さや生き辛さを補うサポートがあれば・・・

チャレンジ出来る子ども達ですよ。

「不幸な人」ではなくて「不便な人」であり・・・言葉を大きくとらえ違えてる。

だから・・・

「あなたには特性に問題があるから支援学級もしくは支援学校にに行きましょう」

で済ませる問題ではないはずだと思います。

一律の授業に参加することが出来ないからといって・・・

分けて考える風習もよくないことだと思います。

その良くないことのひとつに、目に見えない「障害」のことについても

何もしらない子ども達にも悪影響だと思います。

分けて考える大人の行動が「障害」児・者達のことを

「出来ない子」「自分達とは違う」と思わせるような価値観を持たせる

きっかけにもなると思うのです。

関わり方、言い方によっては・・・

  • 出来ない子ではなく、サポートがあれば出来る子
  • 困らせる子ではなく、困っている子
  • 授業についていけないのではなく、配慮があれば取り組める子
  • 迷惑をかける子ではなく、迷惑をかけたくないと思っているにも関わらず困り感が多すぎて結果として迷惑に思われてしまう子

本当は、だれもやりたいんですよ・・・

それなのに、なんの配慮も施さずに・・・

何度も同じ失敗を重ねさせ、自信を失わさせ、「違う」を植えつける・・・

その子どもにあった配慮を考え、その子どもがわかる伝え方を見つけ

その行動を周りに伝えられるように動いてほしい。

「障害」児・者の問題行為に疲れてしまっている支援者だって・・・

彼らが落ち着いて過ごせる状態になればお互いが過ごしやすいのではないかな?

なんで配慮がこんなにも足りないんだろう?と日々考えています。

世の中はまだまだ「障害」に対してネガティブなイメージが

社会全体に強い。

社会の中での誰かの困りごとは「社会問題」として・・・

制度をかえ体制をかえと変わっていけるチャンスですが、

今の日本では「障害」ということも含め、様々な問題に蓋をするような

そんな文化がある意味出来上がってしまってるんです。

日本人は、見たくないものにすぐ蓋をします。

企業に超過労働でうつ病になる人が出たとしても

「そんな事実はありません」

として終えることもある・・・何なら隠蔽しちゃう・・・

影響力の強い芸能人が、自ら命を絶っても

「プライバシー」や「働き方問題」「産後問題」について

大きく問題視されるわけではなく・・・

制度を変えていこうとする動きすらもない。

多くは・・・ワイドショーのネタとして話されているのを見聞きしただけです。

「苦しんでいるという事実」

は、そこにはあってはならないものとされてることもきっと多いんですよね。

 

よって・・・思うんですよ。

適応できないのに適応しようとする努力なんてしなくていい。

置かれた場所で咲くのではなく、綺麗に自分が咲き誇れる場所にいっていい。

その、移動する中で転ぶ、落ち込むそんなこともあるでしょう。

でも、辛いことに耐えて我慢し、病気になるよりはるかにいいし、

周囲に合せる努力ばかりでは・・・生き辛くて仕方がない・・・

それは当たり前。

だから・・・「置かれた場所で咲きなさい」ではなく

生きていきたい場所に自由にいっていい・・・そう思います。

「障害」肉体、頭脳、感情労働・・・

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世間の仕事や職業は、「肉体労働」と「頭脳労働」に大きく分けられます。
近ごろは、これに「感情労働」というカテゴリーが加わっている模様ですねーーー

接客やクレーム処理など、感情の抑制が不可欠とされる労働のことです。

私たちは、「障害」児・者の様々な活動を行なっています。

会員さんたちの肉体労働や頭脳労働、感情労働?様々な分野に携わっています。

適切な支援を受ければ・・・会員さんたちはさまざまな社会産業活動に

取り組むことができます。

活動の中で成長し、中にはさほど支援を必要としなくなる会員さんもいます。

ですが、感情労働の部分では、まだ多くの部分をスタッフや家族が担っています。

それは多くの「障害」児・者たちは、おおむね感情労働が苦手な方が多いからです

(例外的な人もいますが・・・)
機能的な「障害」によって、他者の思いを推し量ったり推察できない人、

自分の気持ちを抑えられない、コントロールしにくい人達がいます。

また・・・これも多いのですが叱責やいじめなどを受け続けてきた経験から・・・

相手の言動が本人のストレスに直結しやすくなっている人もいます。

会員さんの感情労働について、本会では、失敗という概念や短所という概念ではなく

成功体験もですが・・・短所もやり方によっては長所に転化できること

できないことに注目するのではなくできることに注目することで・・・

×って言われ続けたこと、失敗と思わされてきたこと・・・

そんなことを見方を変えて長所に転化することで・・・

自信を少しずつ育てていく、自尊感情が育っていくような支援を行ないます。

負担が重そうであれば、初めから感情労働を避けるようにも配慮します。

日本人の子ども達の自尊感情の低さは先進国の中でもトップレベルです。

また・・・それは若年層の自殺の多さにも比例しています。

そんな国で・・・「障害」児・者の自尊感情だって・・・

例外なく絶望的に低いのです・・・

そうしてしまっているのは・・・私達周りの責任、大人の責任なんですよねーーー

 

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彼らが作る製品についてや接客について・・・苦情が寄せられたら・・・

謝罪や弁明を行なうのは・・・もちろん私達スタッフです。

どこの施設でも、たぶん・・・そうしているでしょう。

業務の中での感情労働と、それに伴うストレスについて・・・

私たち周りの大人やスタッフは把握・自覚しておかなければなりません。

彼らの命と尊厳を守るために・・・周りが覚悟し・・・

本気度を試される・・・

こんな時代だからこそ・・・試されることがたくさんある・・・

そして・・・きっと・・・ビジネスチャンスもあると思っています。
福祉の現場だけではなく・・・様々な分野の方とつながることで

様々な気づきがあり・・・そこから<生まれる>モノがある・・・

ぼんやり立ち止まって俯瞰していては何も見つかりません。

どんな流れになっているのか?どんな時代が待っているのか?

どんな動きがこれからをつくるのか?

それは「考動」している人だけにしか・・・

きっと見えてこないでしょう・・・

「障害」者の生産その価値の高め方

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私が顧問をしている福祉事業所は・・・民間企業に負けない経営を・・・

と努力しています。よってメンバーの能力と事業との間に

大きな隙間が出ないよう・・・様々にやることを試行錯誤しています。

実際には、まだまだ伍して戦うどころか・・・同じ土俵に立つことさえ

ままならない状態ではありますが・・・

でも特化した農業部分では・・・素晴らしい生産者だと思います。
これからは・・・企業による製品・サービスを見ている消費者の目が

こちらへ向いてもらえるよう、どのようなサービス形態でやっていくのか?

ってことになるでしょうか?

 

そんなとき・・・ふと思い出すことがあります。

全国有数の進学校として知られる東京・開成高校にある野球簿の話です。

部員たちはもちろん開成高校ですから・・・秀才ぞろいだけど、

じゃあ野球の実力は?野球部の実績は・・・決して高くない。

そのうえ・・・他の部活動と共用する校内グラウンドは、

週にたったの1日しか使えないのです。

これだけ聞いてもとても不利な条件下にある開成高校野球部ですなのでが・・・

強豪校がひしめく東京都内で毎回善戦しているのだそうΣ(゚Д゚)

ベスト16に残った年もあると書かれていました。\(◎o◎)/!

ここの監督は・・・

「もちろん普通にやったら勝てるわけがない」

とし知ってて・・・

野球の常識を大きくくつがえすような・・・

それでいて合理的でもある独特の戦いを仕掛けていきます。
その方法とは・・・

守備は必要最低限に徹し、ゴロなどは無視。

攻撃では長打しか狙わず、全力でフルスイング。

打順は強打者から並べる。
これにより、弱い守りで失点したとしても、打順の並べ方でそれを上回る大量得点で

圧倒する、そして・・・相手がうろたえているうちにできるだけコールドゲームに

持ち込んでしまうという作戦、

独特の戦い方が生まれたそうです。(笑)

 

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野球を知ってる側からすれば・・・危なっかしいけれど・・・

何だかどこか痛快じゃあないですか?

「弱い部員を集めたって力と技で勝てる」

「自分のやりたいことを仕掛けていって、そのやり方に相手を引っ張りこみ、

さっさとやっつける」

と言い切る面白い監督。

「窮鼠嚙猫」「弱者の兵法」「下手は下手で勝つ」等ともいえそう・・・

 

「己の力を知り認めそこから考える」

 

 進学校の野球部と、福祉事業所・・・立場や目的も異なる両者ですなのですが、

強大な相手に挑まねばならないところは同じだなーーー

って思い出してしまいました。

着眼点や気構えなんかは本当に見習うべきものがたくさんあります。

 

「自分たちのできること、やりたいことは何か?」

「どうすればそれができるのか?」

「どうやったら勝てるのか?」

 

それは「当たり前」を壊すものであったり・・・

「逆転の発想」であったり・・・

今までの常識を覆すものであったり・・・

何か突拍子もないことなのかもしれませんね・・・

そんなことを考えると・・・

心配、不安、困ったなんて・・・ナーバスなことではなく・・・

何だかワクワクしてきますよねーーー

「障害」児・者の自由

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「障害」児・者に関わっていると・・・「自由」について

考えることがよくあります。

ただでさえどちらかと言えば・・・社会の中で「不自由」な生活。

食べたい物を食べる自由、行きたい所に行く自由、言いたいことを言う自由

「こう生きていきたい」と願って努力する自由・・・

みんなが、普通に行っていることが・・・なかなか実行するのが難しい。
私たち親は・・・そんな子どもの願いや思いを代弁する機会も多くなります。

そして福祉をつかさどる立場の仕事には・・・

さまざまな自由を手助けする側面も・・・またあります。

私たちは「何でもできる」という自由がありますが・・・

自由には全て自分で責任を持つこともまた大事になってきます。

よって「手伝う」側もどれだけ本人の意向にホントに沿っているのか?

考えていかなくてはいけません。

福祉の支援制度を使っての移動支援などでは・・・

本人の支援でありながら家族の意向が色濃く反映される場合もあります。

本人は

「ここに行きたい」と言っているのに・・・

「そこは家族で行けるから・・・ここ」とか・・・

「何度も言ってるでしょ!!」とか・・・

小さなお子さんならまだしも・・・

「もう成人なんですけど・・・」って方に・・・

他にもご本人が

「この日はヘルパーさんと行きたい」

とご本人が望んでいるにも関わらず・・・

「この日はお母さんは休みだから私と行きます」

って・・・言われる方も・・・もう成人なんだから・・・

本人もう家族じゃあないよねーーーいつまで子離れしないの?

「障害」者だから・・・???ん???この子達・・・

早くに他者に慣れておくべきだよねーーー。

いずれ私たちはいなくなっちゃうんだからーーー

「家族の時間を大切にしなきゃだから・・・土日はゆっくり家族の時間」

んーーーそれって成人してまで必要ですか?

まーーーイベントごとやたまにはあっても・・・

普通離れていかなきゃならない年齢ではないのでしょうか?

普通親といつまでもベタベタ・・・って「障害」者だから?

ちょっと子ども扱いしすぎでしょーーー

家族の時間、子どもとの時間は・・・

幼児期から学齢期までにしっかりとっておいてください。

いつまでも・・・「家族」って・・・

監視、管理のしすぎだと私は思います。

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特に異性の場合・・・見かけることあるけど・・・

恋人?ってくらい公然の場でベタベタしてる・・・

「子どもが離れなくって・・・」

んーーーそうした原因は誰でしょう?

子どものせいではないよねーーーってこと・・・自覚してください。

「もっと自由にしてあげないと・・・息が詰まっちゃうよね」

って思う子もいます。

管理、監視・・・ヘリコプターペアレントの低空飛行しすぎ・・・

あなたの成人してるそのお子さん・・・

やっと立ってるよーーーってな感じ・・・

支援する立場の方も

「これはまず・・・親御さんに確認したから・・・」

んーーー未成年ならねーーー

またその方が判断ができる能力がなかったらねーーー

んーーーいつまでその方の「人権」を阻害するんだろ??

ってこと・・・案外気づかず・・・平然と・・・

やってしまったりしてるかもしれませんよーーー

気を付けましょう・・・

福祉・・・個別かの原則って?

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私は「障害」児を産んでから・・・様々変化してきました。

特に「学ぶ」ってことにどん欲になってきました。

座学はもちろんですが・・・それをどうやって回していくのか?

現場ではどうなのか?全てよくも悪くも・・・「考動」していきました。

その中から50代で福祉をさらに学ぶべく・・・

大学に編入しました。(まーーー座学は・・・大変!!)

その中で社会福祉を学ぶ人は・・・

必ず「個別化の原則」というものを教わったりします。

社会福祉士を目指し受験する方は特に・・・勉強するのではないでしょうか?

支援の対象を“集団”で捉えるのではなく・・・

異なる背景や課題、思いなどをそれぞれに抱えた個別の存在として

認識しなければならない・・・大きく言うと・・・そんな原則ですかね?

 

ある状況で支援者が「大丈夫ですか?」と聞いた場合、

相手が「大丈夫です」と応答したときあなたはどう対応しますか?

「はい。ではよろしくお願いします」「よかったです」

で終わってしまってはいないでしょうか?

その方の「大丈夫」は、

「本心なのか?」よくよく聞いてみないと真意、真実はわかりません。

「本当は自信がないんだけど・・・余計な心配をかけずにすませたい」

「よくわからないけど・・・聞き返しづらい」

「また手間を取らせてしまうのではないか?」

との思いが含まれているのではないだろうか?

と想像力を膨らませることが重要だと思います。

 また別の方の「大丈夫」には・・・

「なんか言って答えることができないから・・・

ここは同じ言葉を返しておくのが無難なのでは・・・」

との思いが含まれていることもあるのではないでしょうか?

他にも・・・

「質問の意図がよく理解できないけど・・・

自分の不安や困惑を相手に知られたくはない」

との思いが含まれていたり・・・

他の・・・「大丈夫」には・・・

「そうか。そうなのだ。私は大丈夫なのだ!!

大丈夫でいなければいないのだ」

と・・・自分に言い聞かせているかもしれない・・・

「大丈夫」1つとっても・・・それぞれ違うんですよねーーー

これらは、説明するまでもなく・・・

言うまでもなく、4人それぞれに異なる対応が必要となることは

明らかですよねーーー。

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私も・・・

メンターから

「人と自分の当たり前は絶望的に違う」

同じものを見ていたとしても・・・見え方が全然違うんだから

そこを理解し深く刻み込んでおくように言われています。

自分の当たり前を押し付けないようにと・・・

「大丈夫です」「はい、わかりました」「知ってます」

これって

「じゃあ言ってみて・・・」って言ったら大抵言えないからって・・・

おっしゃってました。

(はい確かにやってみたら・・・言えないし・・・

言えても半分以下です。大抵・・・)

一般の方々がそうだとしたら・・・

生きづらさを抱えている人なんて・・・

もっともっと「わからない」はず・・・

それが当たり前なんだと・・・こちら側が常に思っていなくてはいけない。

じゃあどうすれば・・・わかった!!判断材料になるのか?

それは・・・相手の成果が出たとき・・・

相手が言ったとおりにできたとき・・・

本人が出した答えは「納得」して動いているから・・・

 

「個別化の原則」これって・・・

私達「支援側」と言われるものが・・・

「自分の理解は絶望的にずれているかも」「全く理解できてないかも」

そんなことを突き付けられている!!

そう思った方がよさそそうだ・・・

支援って「建てかけの家」?

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何かの著書で支援する方たちのことを

「建てかけの家」ってたとえていることがあった・・・

 

問題を抱えている人や、弱い立場にある人を、

さまざまな形で支援している私たちのことを、著者はそう表現してた。

豊かな人間性という地盤に・・・

倫理観という土台を築き、知識や技術というレンガを積んで・・・

維持・継承という屋根を組んでいく・・・

それが理想的な支援者であるということから

その中で・・・私たちはまだ・・・

成長途中の「建てかけ」という意味なわけです。

誰かの幸福を願い働くとき、どんなに健全に働いても・・・

自分の幸せや充分自分を満たさないと成果は挙げられない・・・

と私は思っています。

ですから、この著者の言う通り

知識や技術以前に、まず人間性の確立を訴えていることには・・・

確かに共感しました。

本書では、支援者を成長させる“原則”として・・・・

「誠実さ」「危機介入」「自分を整える力」など

50くらいのトピックを紹介していたような気がします。

ひとつのトピックについて・・・だいたい4ページ前後があてられていました。

各トピックは、初めに短い“物語”が載っています。

ほとんどが著者の実体験や見聞ですが・・・

著名人のエピソード紹介、社会現象への考察などもありました。
このいくつかの物語を受けて・・・

疑問が提示され、自分なりに考えながら学びを深めていくという

ワーク形式だったかと記憶しています。(曖昧(笑))

割と簡単な文章で・・・専門用語などはほとんど

使われていなかったと記憶しています。(私がわかるくらいでしたから・・・)

これって、事業所などの会議研修にはいいなーーーって内容で

チョット保護者などに、本書のワークをひとつずつ行なってみました。

様々試行錯誤で時間はかかりましたが・・・

おおむね好評・・・それぞれに意識を高めてくれたようで使えるなーーーって

思ったのを覚えています。

福祉の現場は・・・また「障害」児・者の現場鹿あまり知りませんが・・・

決してラクではない・・・

ハードな場面も少なくない職場環境だと認識しています。

でも・・・やはりどんな現場であっても・・・

悲壮感よりは幸福感を抱きながら働きたいと・・・

誰もが思い願っているはずです。

そのためには研修やロールプレイが欠かせない・・・

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うちの事務所には・・・よく悩みを抱えた保護者がやってきますが・・・

みなさん日々ご自分の子どもの幸せを願いながら右往左往されています。

そう・・・それは若いころの私です。

私は早くに素敵な出会いに恵まれ教えていただきながらの今があります。

出会わせていただいている保護者も・・・

「あーーーもっと早く」「気づくのがあと10年早かったら・・・」

そんな思いに駆られることも・・・よくあります。

だけど・・・

「出会いは一瞬早くもなく遅くもなく絶妙なタイミングでやってくる」

私は・・・そうメンターに聞いていたので・・・

あーーーコレが必然なんだと・・・一緒に考えたり・・・

学習してきた技法を様々使いながら・・・保護者と考えていきます。

「何度人に話しても・・・すっきりしなかったけど・・・

 すっきり!!しました」そう言って

「また来ます」って帰る保護者の姿を見ると・・・嬉しくなります。

これも・・・先に生まれてきた・・・保護者の役割ですねーーー。

まだまだ・・・私自身も学びの旅は続きます。

支援している方のこと・・・なんて呼んでますか?

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自分達が支援している相手のことを、どう呼ぶか?

みなさんは個人であれば、名前を呼ぶべきですよねーーー
名前に続く「さん」「くん」「ちゃん」などが気になる人もいますが・・・

(呼び捨てやニックネームも含めて)

親しさの度合いもあるかもしれませんが・・・

(私も年下から・・・りっちゃんなんて呼ばれてりしますが・・・

別に気にならないし・・・親しみあって・・・若返るかもーーーなんて

肯定的なんですよ・・・)

普通は・・・まず「○○さん」と呼んでいれば問題はないのではないでしょうか?

最近は教育現場でも「〇〇さん」で統一してるところが多いみたいで・・・

まーー統一がいいのか?どうなのか?

ちょっと・・・って思いますが・・・嫌なあだ名やいじめ防止?

トラブル防止何でしょうかねーーー今のご時世では・・・

 

では、福祉などで・・・支援している“集団”は、どう呼んでいるのでしょうか?

なんかどこかの全国大会で発表を聴いたとき

「仲間」と呼んでいる施設なんかもありましたねーーー

これって・・・支援者との間に上下関係がないこと、平等?対等?

同じだよってことをたぶん・・・表しているのでしょうねーーー

また、ある施設では「子どもたち」と呼んでいました。

まーー言っていたのが高齢の施設長さんだったので・・・

周りの人びとがみんな幼いのは当たり前でしょうが・・・

だからそう呼んでいるのかも知れないなーーーと・・・

(でも・・・子ども達の年齢ではない職員さんは

利用者さんと言っていましたねーーーそりゃあそうだ!!(笑))

まーーー親近感なのでしょうねーーー

(私も会員のお子さんは子ども達って言いますからねーーー)

まあーーー一般的に聞くのは「利用者さん」でしょうか?
「福祉サービスを利用している人」を表す呼称でもありますし、

私の知ってる限りでは・・・これがまーーー

だいたい多数派のようですねーー

「者」の後に「さん」をつけるのはホントは奇妙な感じですけど、

まあ一般に病院などにしても・・・

「患者さん」と言ったりするのでーーー

まーーー普通に認知されてはいる程度の些細なことですね(笑)
けれど、日本語的には・・・何となく違和感はありますけど・・・

 

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何か聞くたびに・・・

他に適した呼び方があるような気がして・・・

私が顧問をしているところでは「メンバーさん」と呼んでいます。

会議のときには固有名詞で読んでいます。

そこに私も周りも違和感がないので・・・

これでいいのかな?と思いつつ・・・

他は・・・どんな感じなんだろ?もっといいのあるのかな?

なんて思ったりしながら・・・アンテナ立ててます。

みなさんの地域や周りではいかがですか?

 

まずは見た感じや呼び方から・・・って

「障害」も「しょうがい」「障がい」なんて

記載するようになってきましたよねーーー

コレも意識を変革させていこうという取り組みの一環です。

私たちはあえて「障害」と漢字を使い続けていますが・・・

まーーーここにも意味があります。

 

こだわって何かをやっていく・・・

そこにはそこなりの「思い」「信念」などが隠れているのでしょうね・・・